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シェルビー・デイトナ(''Shelby Daytona'' 、別名:コブラ・デイトナ・クーペ、デイトナ・コブラ)は1960年代半ばに活躍したアメリカ合衆国のレーシングカーである。ル・マン24時間レースでの打倒フェラーリを目指す、シェルビー・アメリカンにより合計6台が製造された。デイトナ24時間レースの前身、デイトナ2000kmレースでデビューしたためデイトナというニックネームが付けられた。レースにおける成績は輝かしいものであったが、フォード・GT40との関係で突然の引退を迫られた。現在、これらの車両はそれぞれ個人コレクターが所有し、競売において世界で最も高値がつく車の一つとされる。 == デビュー、数々の勝利 == 1963年にデビューしたACコブラMkIIは、軽量なボディに強力なエンジンを搭載し、キャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの手によってヨーロッパ各地のレースで暴れまわっていた。しかし、オープンボディのACコブラでは直線の長いサーキットでは空力上の不利が大きく、特にル・マンが行われるサルト・サーキットではトップスピードで差が開き、フェラーリの後塵を拝していた。 そこでシェルビーは新しい車両の設計を決断。ピート・ブロックに空力に優れたボディデザインを、後にフォード・GT40のシャシー設計を行ったボブ・ネグスタッドにサスペンション の改良を指示。ACコブラのフレームやエンジンなどの基本パーツを利用し、必要に応じて新しいパーツを組み合わせることにした。 1964年1月、プロトタイプCSX2287がカリフォルニア州ベニスビーチのファクトリーで完成、テスト走行を繰り返した。 1964年2月、デイトナ2000kmレースにおいてデビュー。結果は途中リタイアであったが、予選でも上位に食い込み、強烈なインパクトを残した。 1964年3月、セブリング12時間レース、GTクラス優勝した。 キャロル・シェルビーはデイトナの高い戦闘力を確信、2台目以降の製造を考えたが、彼らのファクトリーの狭さが問題になった。そのためイタリア・モデナのCarrozzeria Gransportに5台(シャシー番号:CSX2286、CSX2299、CSX2300、CSX2601、CSX2602)の車両製作を依頼する。フェラーリにとって最大のライバルとなったデイトナは、皮肉なことに彼らのお膝元で生み出され、次々にレースに投入されていった。 CSX2286は1番若い車台番号を持つが、完成したのは1番遅かった。ビッグブロックを搭載するなど、多くの仕様変更を受けていたとされる。 1964年6月、ル・マン24時間レース、GTクラス優勝(CSX2299) 。ドライバーはダン・ガーニーとボブ・ボンデュラント。 CSX2287は途中リタイア。GTクラスの2-8位には3台のフェラーリ・250GTOと5台のポルシェ904GTSが続いた。 1964年8月、グッドウッドTT、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはガーニー。 1965年2月、デイトナ2000kmレース、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはジョー・シュレッサー他。 1965年3月、セブリング12時間レース、GTクラス優勝(CSX2299)。ドライバーはシュレッサーとボンデュラント。 1965年6月、ル・マン24時間レース、GTクラス3位入賞(CSX2299)。 CSX2300以外の5台体制で出場するも、4台がエンジントラブルでリタイア。GTクラス優勝はフェラーリ・275GTB、2位にはポルシェ・904GTS。 1965年7月、フランスGP、GTクラス優勝(CSX2601)。 1965年8月、ドイツGP、GTクラス優勝(CSX2601)。 1965年9月、イタリアGP、GTクラス優勝。 1965年、FIA GTクラスの年間チャンピオンに輝いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シェルビー・デイトナ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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