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シオンヌ(シオン)の聖母:しおんぬ(しおん)のせいぼ イタリア語:Nostra Signora di Sion 英語Our Lady of Sion(or Zion)とは、イタリアのローマにおいて、反カトリックのユダヤ教徒であったマリー・アルフォンス・ラティボンヌ(Marie Alphonse Ratisbonne)に起こった聖母の出現である。この時、ラティボンヌは試しにと、奇蹟のメダイを身に付けていた。ラティボンヌはその後、カトリックに改宗し、その後イエズス会の司祭になっている。〔The Mracle Hunter Rome, Italy (1842) 〕〔 Nortre Dame de Sion In Sion firmata sum Alphonse Ratisbonne 〕 ==背景== マリー・アルフォンス・ラティボンヌ(Marie Alphonse Ratisbonne)は1814年5月1日にフランスのストラスブールで生まれた。彼はユダヤ人銀行家の裕福な貴族の息子で、相続人であった。彼が子供の時、兄のテオドール(Theodor)がカトリック教会の信者になり、司祭にまでなった。このことがユダヤ教徒であった彼の一家に影を落とし、彼は兄とその後1度も口を聞くことをしない、と決心した。そして、彼の心の中で、カトリック教会に対する憎悪が芽生え、増幅した。〔 1842年に、ラティボンヌは結婚を機にヨーロッパ旅行を計画し、その一環で、ナポリに行くこととした。ところが、その手続きの間違いで彼はローマ行きの汽船に乗ってしまった。ローマに到着した彼はローマ市内を見物して回ってみた。〔 ローマ市内で彼は昔の友人に再会し、そのつながりからテオドール・ド・ビュシエール男爵(Theodore de Bussières)に出会った。この男爵はラティボンヌを何とかカトリック教会の信者に改宗させようとし、彼はラティボンヌに奇蹟のメダイをためしに付けて、お祈りをして見ないかと持ちかけた。ラティボンヌはそれを嘲りの気持ちから同意した。 その数日後、男爵の知り合いが急死し、葬式の手配を済ませるため、ラティボンヌがカトリック教会で、その手伝いをすることになった。〔 その葬儀はローマにある聖アンドレア・デッレ・フラッテ聖堂(St. Andrea delle Fratte)で行われることになった。〔 ==御出現== 1842年1月20日、偶然の成り行きで、葬儀の手伝いをすることになったラティボンヌは、ユダヤ教徒で反カトリックであった。彼は教会の中に入った時に混乱してしまい、その場にいる気がしなかった。 彼が上を見上げたとき、全ての祭壇が、ただ1つを除き、影の中に消え、まるですべての光がその一つの祭壇に集中したようだった。 それだけの光がこの祭壇のどこから発するのか、良く見ようとすると、その祭壇は生きている人物であった。背が高くて、壮大で、美しくて、慈悲でいっぱいであった。その人物は奇蹟のメダイの聖母マリアに良く似ていた。その光景にラティボンヌはその場に立っていられず、ひざまついてしまった。 眼が眩むほどの光で上を見上げることができず、その人物の手をちらっと見ると、そこには慈悲と許しを読みとることができた。〔 ラティボンヌによると、「聖母マリアの目前で、彼女が私に話しかけなかったとしても、私がいた恐ろしい状況、そして犯した罪と、カトリック教会の慈悲を理解した。」という。 ひざまづいているラティボンヌを見つけたテオドール・ド・ビュシエール男爵はラティボンヌをホテルに連れ帰り、休ませていると、ラティボンヌは奇蹟のメダイを握りしてすすり泣きながら、ゆるしの秘跡を受けたいので司祭のところへ連れて行って欲しいと男爵に懇願した。そして、「いつ洗礼を受けることができるか。洗礼を受けることなしに私は生きていけない。」と語った。〔 男爵はラティボンヌをイエズス会士のヴィルフォール神父(Villefort)のもとに連れて行った。すすり泣いていたラティボンヌが落ち着くと、彼は奇蹟のメダイを手にし、自分は聖母マリアに会ったと告白した。1842年1月31日、ラティボンヌはカトリック教会の洗礼を受け、聖体拝領をした。その際に自分の名前に聖母を表すマリー(Marie)を付けくわえた。その後彼は、イエズス会に入会し、1848年に司祭となった。〔〔長年にわたり、連絡を絶っていた兄で司祭のテオドールと和解した。テオドールは1843年に「シオンの聖母修道会」を設立しており、ラティボンヌもその修道会に協力した。〔 Noytr Dame de Sion History 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シオンヌの聖母」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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