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シクストゥス5世(Sixtus V、1520年12月13日 - 1590年8月27日)は、16世紀後半のローマ教皇(在位:1585年 - 1590年)。本名はフェリーチェ・ペレッティ(Felice Peretti)。教皇領の治安回復、ローマ教皇庁の財政立て直しに辣腕をふるい、公共事業に惜しみなく投資して都市ローマを現代に近い形に整備した。批判も多いが、残した業績の大きさでは歴代教皇随一である。 == 生涯 == === 教皇就任まで === グロッタンマーレ(現マルケ州)出身のペレッティは貧しい一家の出身であった。父は庭師であり、彼自身も豚の世話をして生計をたてていた。ただ、当時の人々の生活レベルを考えれば、このことは現代のわれわれが考えるほど驚くべきことではない。やがてモンタルトのフランシスコ会の修道院に入り、すぐに説教師・弁証家として頭角を現した。 1552年ごろ、フランシスコ会の保護者でもあったロドルフォ・ピオ・ダ・カルピ枢機卿(1500年 - 1564年)やギスリエリ枢機卿(後のピウス5世)、カラファ枢機卿(後のパウルス4世)の目にとまったことで、その後の栄進が保障されることになった。ヴェネツィアの教皇巡察師に抜擢されたが、あまりに職務に忠実で高圧的であったためトラブルが頻発し、1560年にヴェネツィア政府に解任を要求される。フランシスコ会の総代理を務めた後、1565年にボンコンパーニョ枢機卿(後のグレゴリウス13世)に率いられたスペインへの使節団のメンバーに選ばれた。使節団はトレドのカランツァ大司教にかけられた異端嫌疑の調査に向かったのである。 ピウス5世が教皇になるとローマに呼び返されてフランシスコ会の教皇総代理に選ばれ、1570年にグレゴリウス13世のもとで枢機卿にあげられてモンタルト枢機卿と呼ばれるようになる。そこで彼は教皇庁の職務の第一線を退いてエスクイリーノの丘にドメニコ・フォンターナによって建てられた、ディオクレティアヌス帝の浴場を見下ろす邸宅の整備に専念するようになった。やがてペレッティ自身が教皇に選ばれると、建築事業にもさらに力が入り、既存の住宅を撤去して、4つの新街路を設置した。敷地内には2つの大きな邸宅、「ディ・テルミニ」とも呼ばれたシスティノ宮殿とパラッツェット・モンタルト・エ・フェリチェとよばれた邸宅があった。この工事のために転居を余儀なくされた住民は憤懣やるかたなかった。1869年に教皇のために鉄道がひかれ、駅(テルミニ駅の前身)が設置されることが決まったことで、これらの施設も取り壊されることになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シクストゥス5世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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