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フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス(Francisco Jiménez de Cisneros, 1436年 - 1517年11月8日)は、15世紀のスペインの摂政・枢機卿。2度にわたってスペイン王国の摂政の座についただけでなく、スペインにおける聖職者の綱紀粛正を行い、異端審問所長官をつとめ、北アフリカのムーア人に対する十字軍活動を起こすと共に、キリスト教布教にもつとめた。 文化面でも、コンプルテンセ大学を創設し、聖書の多言語対訳版を編集するなどの貢献をし、スペイン史に大きな足跡を残した。シスネロスの時代はスペインの黄金時代の幕開けの時期にあたっており、歴史家ジョン・エリオットをして「スペインが世界の一大強国となれた事はフェルナンド2世とシスネロス枢機卿の2人に負う部分が多い」と言わしめるほどの人物であった。 == 生涯 == === 前半生 === ゴンサーロ・ヒメネス・デ・シスネロスは1436年、カスティーリャのトレラグーナの貧しい一家に生まれたが、勉学に励んでアルカラ・デ・エナーレスとサラマンカ大学で学んだ。1459年スペイン枢機卿団の使節としてローマに派遣され、同地での活躍によって教皇シクストゥス4世の目にとまった。教皇の引き立てによりスペインで聖職禄を受けられる旨を記した特別書簡を携えてスペインに戻ってきたのは1465年の事であった。 書簡にはシスネロスをウセーダの司教に取り立てる旨が記されていたが、当時のスペインにおけるカトリック教会の実力者カリヨ司教はこれを拒絶。代わりにシスネロスに自分の聖職禄を与えると伝えたが、シスネロスはそれを受け入れず、自らの権利を主張した。あまりに徹底的に主張し続けた為に投獄された。要求を撤回しさえすればすぐに解放するといわれていたにもかかわらず、シスネロスは主張を変えずに6年にわたって獄にいつづけた。ここにいたってカリヨ司教もシスネロスの不屈の闘志に感銘を受け、彼が求めていた聖職禄を与えた。シスネロスはようやく獄を出る事が出来たが、苦労の末に得た聖職禄にはそれほどこだわる事なく、すぐにそれを手放すとシグエンサ司教メンドーサ枢機卿のもとでシグエンサの聖職禄を受けた。 シグエンサでもその働きぶりを賞賛されたシスネロスは、そのまま聖職者としての栄達の道を突き進むかのように見えたが、1484年に突然フランシスコ会に入会した。この時、財産を手放しただけでなく名前をゴンサーロからフランシスコに変えるほどの強い決意を示し、トレドに出来たサン・フアン・デ・レージェス修道院に入った。フランシスコ会員としてシスネロスは通常の苦行や清貧では満足できず、他の会員よりも厳しい禁欲生活を自らに課した。後にシスネロスは世俗の権力の頂点を極める事になるが、私生活では死ぬまで徹底した清貧と禁欲の生活を貫き通した。 後に隠修士として修道院に近い森の中の庵で黙想生活を送るようになったシスネロスであったが、かつての上司であったメンドーサ枢機卿は彼の事を忘れていなかった。トレド大司教としてスペイン聖職者会のトップに立ったメンドーサが、イサベル女王の聴罪司祭としてシスネロスを推薦したのである。シスネロスはフランシスコ会員としての清貧の生活を続けさせてくれる事と、必要な時だけ王宮に赴く事を条件にこれを受けた。王妃の聴罪司祭という地位は、宗教的な意味だけでなく王妃の私的顧問という面において政治的にも重要なポストであった。シスネロスの高潔な人格と清貧の生活は王妃に強い印象を与え、すぐにその信頼を勝ち取った。 1494年、シスネロスはフランシスコ会のスペイン地区長に任命された。1495年にメンドーサ枢機卿が世を去ると、イサベルは教皇アレクサンデル6世に対しシスネロスをトレド大司教に推薦した。トレド大司教の地位は当時のスペインにおいてどんな貴族も及ばないほどの影響力を持った重要なポストであった。シスネロスはトレド大司教になった後も質素な清貧生活を続けていた為、ローマ教皇庁からはポストにふさわしい華美な生活をしてほしいという苦情が出るほどであった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「フランシスコ・ヒメネス・デ・シスネロス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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