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シッタン作戦(シッタンさくせん)とは、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月から終戦にかけて、ビルマ戦線において日本軍とイギリス軍の間で行われた戦闘である。日本の第28軍がシッタン川を越えてビルマ東部へ撤退しようとして発生した。日本兵34000人のうち、終戦までにシッタン川東岸の友軍部隊に収容されたのは15000人にとどまり、残りの多数が死亡した。日本側の作戦名は邁作戦(まいさくせん)。また、日本軍が撤退援護のために行ったシッタン川の湾曲部(ベンド)における戦闘をシッタン・ベンド作戦とも呼ぶ〔アレン(1995年)、105頁。〕。 == 背景 == === ラングーン陥落 === 1945年(昭和20年)、ビルマ戦線においてイギリス第14軍(en)の全面的な反攻作戦が開始された。3月末までに日本の緬甸方面軍はイラワジ会戦で敗北し、日本軍の指導下で組織されていたビルマ国民軍は「ビルマ国」に対する全面反乱を起こして日本軍を攻撃した。4月23日には緬甸方面軍司令部がビルマの首都ラングーン(現ヤンゴン)からモールメンに後退し、隷下部隊のうち第15軍(5月5日時点での残存兵力2個師団:約10500人〔防衛庁防衛研修所(1969年)、330-331頁。〕)はシッタン川を渡っての対岸付近を経て6月にはタイ王国やインドシナ半島へ移動開始、第33軍(4月末時点での残存兵力4個師団:約3,900人〔防衛庁防衛研修所(1969年)、312頁。〕)もシッタン川を渡って河口東岸に後退した。 イギリス軍はシッタン川西岸沿いのマンダレー街道(現在の国道1号線, en)を南下する陸路からの進撃及びに基づく着上陸作戦で、5月2日に無防備状態のラングーンを占領した。5月3日、緬甸方面軍は、シッタン川西岸のビルマ南西部に唯一残っている第28軍(1個師団・1個旅団基幹)にラングーン現地編成の独立混成第105旅団を併せ指揮させてラングーンの固守を命じたが、すでに手遅れであった〔防衛庁防衛研修所(1969年)、270-271頁。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シッタン作戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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