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シティ・オブ・ヘレフォード : ミニ英和和英辞書
シティ・オブ・ヘレフォード[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シティ・オブ・ヘレフォード ( リダイレクト:ヘレフォード ) : ウィキペディア日本語版
ヘレフォード[ちょうおん]

ヘレフォード(、)は、イングランド西部のウェスト・ミッドランズにある都市で、ヘレフォードシャーの州都。ウェールズの東26km、ウースターの南西39km、グロスターの北西37kmに位置し、ワイ川に臨む。人口は5万5800人で州内最大。ヘリフォードとも表記される。
ヘレフォードの ''here'' はアングロサクソン語で軍や兵隊を指すとみられ、 ''ford'' は渡し場を意味する。地名の由来がこれで正しければ、ヘレフォードは武装集団がワイ川を渡る地点だったことになる。ウェールズ名は「旧い道」という意味の ''Henffordd'' で、これはローマ街道や郊外のストレットン・サグワズにある古代ローマの入植地を表すと思われる。
1189年、リチャード1世から「ウェールズのヘレフォード」として自治が認められた。かねてより都市と認められてきたが、正式に市となったのは2000年10月のことである〔Beckett, J V (2005). ''City status in the British Isles, 1830–2002'', Historical urban studies. Aldershot: Ashgate.〕。
現在は主に、農産品の商取引の中心地として知られている。シードルビール、革製品、ニッケル合金、家禽、化学製品、有名なヘレフォード種をはじめとする家畜などを産する。
== 歴史 ==

ヘレフォードは676年から688年までの間にヘレフォード司教のプッタが本拠地とし、マーシアウェールズを結ぶ要地として成長、8世紀初めまでに西マーシアにおけるアングロサクソン人の中心地となった〔Sims-Williams "Putta (d. c.688)" ''Oxford Dictionary of National Biography''〕。
アングロサクソン人とウェールズ人のあいだの確執は、760年のヘレフォードの戦いに発展し、この戦いでブリトン人はイングランドによる支配から解放された〔''Annales Cambriae''〕。アングロサクソンのエドワード懺悔王と衝突していた1056年にも、ウェールズ人はヴァイキング連合軍やグウィネズ=ポーイス王グリフィズ・アプ・ルウェリンと手を結び市街に進攻、撤退直前に火を放った〔〕。
現在のヘレフォード大聖堂は12世紀に建てられた。歴代のヘレフォード司教にはトマス・カンティループや王室の大蔵卿も務めたトマス・チャールトンなどがいる。
パリメゾン=アルフォールアルフォールヴィルの地名はヘレフォードに由来するが、これは13世紀中葉にヘレフォード司教のピエール・デグブランシュが邸宅を建てたことにちなむ。
歴代ヘレフォード伯の本拠地には、かつてウィンザー城にもひけをとらなかったというヘレフォード城があった。たびたび侵略してくるウェールズ人を食い止め、ヘンリー4世のオウェイン・グレンダウァーに対するウェールズ方面作戦などでは堅固な要塞となったが、18世紀に取り壊され、跡地は緑地になっている。
ばら戦争中のモーティマーズ・クロスの戦いで捕えられたランカスター家の指揮官、オウエン・テューダー(将来のヘンリー7世の祖父)はロジャー・ボーハン卿によってヘレフォードで処刑された。その地点には現在、プレートがある。一方のボーハン自身も、後にオーウェンの息子ジャスパー・テューダーによって処刑されている。
イングランド内戦中は支配者が幾度となく入れ替わった。1642年9月30日、ロバート・ハーリー卿とスタンフォード伯ヘンリー・グレイ率いる議会派が無抵抗の市内を占領。後にハーバート卿麾下の王党派のプレゼンスが高まると、12月にグロスターへ引き揚げた。1643年4月23日から5月18日の短期間にもウィリアム・ウォーラー卿率いる議会派に短期間占領されたが、もっとも大きな軍事行動は1645年にあった。1645年7月31日に初代リーベン伯アレクサンダー・レスリー率いる1万4000のスコットランド軍が市街を包囲するも、駐屯兵と市民の頑強な抵抗に直面、チャールズ王接近の報せが入った9月1日に撤退した。最終的に、市は同年12月18日に議会派のバーチ大佐とモーガン大佐の手に陥った。ヘレフォード市の市章は1645年9月16日、チャールズ王が先の包囲における抵抗に感謝して裁可したもので、リチャード1世の三獅子とスコットランド軍の十連隊を意味する十のスコットランド十字、かぶと飾りには「信仰の守護者」としての獅子、そして金条の入ったかぶとが描かれている。後の二つが紋章に描かれるのはごくまれで、ほかにはロンドン市のそれにみられるのみである。
女優にしてチャールズ2世の愛人ネル・グウィンは、1650年にヘレフォードで生まれたとされる(ほかにも、オックスフォードなどが彼女の生地を主張している)。グウィン通りは彼女にちなみ命名された。当地出身の俳優にはほかにデービッド・ガリック(1717年 - 1779年)が挙げられる。
大聖堂隣の司教館は、築造された1204年から現在までずっと使われ続けている〔http://ads.ahds.ac.uk/catalogue/adsdata/arch-769-1/ahds/dissemination/pdf/vol04/4_069_080.pdf〕。ヘレフォード大聖堂附属学校はイングランドでもっとも歴史ある学校のひとつ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヘレフォード」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Hereford 」があります。




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