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シドニウス・アポリナリス
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シドニウス・アポリナリス : ウィキペディア日本語版 | シドニウス・アポリナリス
シドニウス・アポリナリス(Sidonius Apollinaris、430年頃の11月5日〔アポリナリスは義兄弟エクディキウス(西ローマ皇帝アウィトゥスの子で妻の兄弟)にあてた短い詩の中で自らの誕生日について触れている。〕 - 489年8月)は、西ローマ帝国末期の元老院議員。詩人や外交官、司教でもあり、聖人に列せられている。エリック・ゴールドバーグによれば、シドニウスは5世紀のガリア出身で唯一記録が残っている、最も重要な著作家であるとされている〔The Fall of the Roman Empire Revisited: Sidonius Apollinaris and His Crisis of Identity 〕。彼は5-6世紀にかけての、著作が残る4人のガロ・ローマン貴族のうちの一人であり、他の3人は、リモージュ司教ルリキウス(Ruricius、507年没)、ヴィエンヌ司教アウィトゥス(Alcimus Ecdicius Avitus、518年没)、そしてティキヌム司教であったアルルのマグヌス・フェリクス・エンノディウス(Magnus Felix Ennodius、534年没)である。彼ら全員がガロ・ローマン貴族のネットワークのもとに緊密な関係にあり、そのネットワークはガリアのカトリック僧侶の間に張られていた〔Ralph W. Mathisen, "Epistolography, Literary Circles and Family Ties in Late Roman Gaul" ''Transactions of the American Philological Association'' 111 (1981), pp. 95-109.〕。彼の祭日は8月21日である。 == ウァレンティニアヌス3世に対する発言 == 454年、西ローマ皇帝であるウァレンティニアヌス3世が自身の手で、フン族や西ゴート族といった蛮族に対して優位に立っていたフラウィウス・アエティウスを殺害した。4年前に死去した皇帝の母であるガッラ・プラキディアの度重なるアエティウスに対する讒言、皇帝自身のアエティウスに対する恐れや不信感(アエティウスの息子であるガウデンティウスは皇女プラキディアと婚約していたものの、過去に僭称者ヨハンネスを支持して敵対していたアエティウスが、実は自分の息子を帝位につけることを欲していると信じ、脅威に感じていた)がそのような凶行に走らせたのであった。この暗殺に対して釈明した皇帝に対して、シドニウスは「私は陛下のご意思やお怒りについては何も存じません。ただ、私は貴方がご自身の左手でご自身の右手を切り落としたことは知っています。」と言った〔ギボン、『ローマ帝国衰亡史』、ch. 35〕。この発言の通り、翌年の455年に皇帝はアエティウスの元部下に暗殺され、蛮族の侵入は更に激化し、帝国は常に後手に回らざるをえず、476年のロムルス・アウグストゥルスの廃位と480年のユリウス・ネポスの暗殺により滅亡したのである。シドニウス自身は帝国の衰退と滅亡の全てを目にした後、489年に58歳で死去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シドニウス・アポリナリス」の詳細全文を読む
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