翻訳と辞書
Words near each other
・ シドニー日本人学校
・ シドニー歌劇場
・ シドニー港
・ シドニー港攻撃
・ シドニー湾
・ シドニー現代美術館
・ シドニー白人暴動
・ シドニー空港
・ シドニー語
・ シドニー造幣局
シドニー=ガブリエル・コレット
・ シドネイア
・ シドネ・ゴヴ
・ シドマス子爵
・ シドラ
・ シドラ湾
・ シドラ湾事件
・ シドラ湾事件 (1981年)
・ シドラ湾事件 (1989年)
・ シドル


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

シドニー=ガブリエル・コレット : ミニ英和和英辞書
シドニー=ガブリエル・コレット[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シドニー=ガブリエル・コレット : ウィキペディア日本語版
シドニー=ガブリエル・コレット[ちょうおん]

シドニー=ガブリエル・コレット (Sidonie-Gabrielle Colette, 1873年1月28日 - 1954年8月3日) は、フランスの女性作家コレット (Colette) というペンネームで活躍した。「性の解放」を叫び、同性も対象とした華麗な恋愛遍歴で有名。代表作のひとつは『ジジ』 (1944年) であり、後にブロードウェイで舞台化され、さらに1958年にはモーリス・シュヴァリエ主演により映画化もされた。ブロードウェイ版『ジジ』のオーディションに自ら立会い、主演にオードリー・ヘプバーンを抜擢したことでも有名。
== 生涯 ==
ブルゴーニュ地方ヨンヌ県サン=ソーヴル=アン=ピュイゼー出身。父親はジュール=ジョゼフ・コレット、母親は愛称シドことアデールという。1893年に15歳年長のアンリ・ゴーティエ=ヴィラールと結婚。処女出版された『クロディーヌ』シリーズは、夫の筆名ヴィリー (Willy) 名義で世に送り出された(夫婦合作とも言われる)。
1906年に浮気なバイセクシャルの夫と離婚し、パリミュージック・ホールパントマイムや踊り子として活躍を始める。この頃の愛人は、ナポレオン3世の血縁者を名乗っていたベルブーフ侯爵夫人ミッシーであり、二人は舞台上で共演することもあった。1912年に紙主筆のアンリ・ド・ジュヴネルと再婚。ベル=ガズー・コレット=ド=ジュヴネルをもうけた。娘の回想によると、コレットは子供を望んでおらず、赤ん坊をイギリス人の乳母に任せて自分は家を出たきりだったという。
1914年にパリ・オペラ座から、新作バレエの台本を委嘱され、「わが子のためのディヴェルティスマン(娯楽音楽)」と題したプランを練り始め、モーリス・ラヴェルに音楽担当を呼びかけるが、ラヴェルはこれをオペラとして膨らませることを提案し、コレットはそれを受け容れた。こうして完成された台本が『子供と魔法』であり、ラヴェルは第一次世界大戦後に、数年がかりで1幕オペラにまとめあげ、1925年3月21日の初演を迎えた。
1924年に、ジュヴネルの連れ子ベルトランとの仲が取りざたされ、離婚に至る。このベルトランとの関係からインスピレーションを得た作品が『青い麦』 (1922年) 。1935年、17歳年下のモーリス・グドケと再々婚。今度の結婚生活は幸福だった。
生涯にわたって挑発的な人物として、結婚生活のかたわらで同性愛体験を謳歌した。だが、第一次世界大戦中は、ジャーナリストとして活躍し、自宅を野戦病院として開放していた。第二次世界大戦中は、夫グドケがナチスゲシュタポに連行されるなどの経験もあり、心ならずもヴィシー政権に協力した。
受けた名誉は、レジオン・ドヌール・シュヴァリエ賞 (1920年) 、ベルギー王立アカデミー (1935年) 、アカデミー・ゴンクール総裁 (1945年、最初の女性総裁) 、グラン・オフィシエ (1953年) など。
1954年8月3日パリで他界。生前、自らの奔放な生活様式を理由に、ローマ・カトリックによる葬儀を拒否したにもかかわらず、8月8日に国葬が営まれ、亡骸はペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シドニー=ガブリエル・コレット」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.