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シプリアニ (''Cipriani'') はイタリアで生産された競走馬である。イギリス、アイルランドで競走馬生活を送ったあとは日本で種牡馬となり、ネヴァービートらとともに日本におけるネヴァーセイダイ系ブームを担った。 == 経歴 == 現役時代は1960年(2歳)から1962年(4歳)まで走り、通算成績17戦4勝。主要なレースではサセックスステークス2着が目立つ程度。英ダービー5着、愛ダービー6着と、一流と呼ぶには物足りない戦績であった。そのほか、コロネーションステークス(サンダウン競馬場で行われた10ハロン7ヤードの競走で、現在の英G3ブリガディアジェラードステークス。同名のG1競走とは別)、ファルマスハンデキャップ(ヨーク競馬場で行われた一般戦で、ファルマスステークスとは別)などに勝っている。引退後に日本軽種馬協会が購入して輸入され、翌1963年から種牡馬として供用された。 輸入された当時はヒンドスタンが日本の競馬界を席巻しており、父ネヴァーセイダイもシプリアニが輸入された1962年に英愛リーディングサイアーになったものの、日本ではまだ実績がなかった。それらの事情と自身の地味な競走成績が重なり、初期のころのシプリアニは、その産駒ともども大して期待をされていなかった。のちの代表産駒のトウメイは貧相な馬体から「ネズミ」と呼ばれ、中央入厩当初は担当厩務員がつかないという、期待馬とは程遠い扱いであった。ヒカルイマイにいたっては農家に片手間で育てられ、馴致すらされない有り様であったという。 しかし、初年度産駒のアトラスが1966年の小倉3歳ステークスで早々と父に重賞初勝利を届けるなど重賞戦線で活躍。翌1967年から始まった同系種牡馬のネヴァービート産駒の活躍も重なり、次第に注目を集めるようになる。1969年には桜花賞2着、オークス3着のトウメイ、皐月賞3着のタカツバキ〔日本ダービーでは1番人気となり、スタート直後に落馬している。〕と、クラシック戦線で活躍する産駒も現れる。そして1971年にはヒカルイマイが皐月賞、日本ダービーの二冠馬となり、トウメイが天皇賞(秋)、有馬記念を勝って啓衆社賞年度代表馬に輝き、その年の競馬界を席巻。翌年も桜花賞、ビクトリアカップを勝ったアチーブスターを出し、その名声は確固たるものとなった。ところが、これからという矢先の1973年に種付け中の事故により、15歳で死亡した。 現在の中央競馬におけるGI級の大レースを勝った唯一の牡馬であるヒカルイマイがサラ系だったこともあり、後継種牡馬には恵まれず、東京大賞典(当時3000m)で3:08.6のレコードタイムをマークして勝利したフアインポートが新潟3歳ステークスを勝ったマイネルムートや南関東の旧3、4歳牝馬の三大競走を総ナメにしたグレイスタイザンなどを出して唯一気を吐いた程度で、ほかの産駒はまったく走らなかった。結局孫世代から後継種牡馬は現れず、父系は途絶えている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シプリアニ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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