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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
シャキーブ・アルスラーン(Shakīb Arslān、1869年 - 1946年)は、レバノン出身のドゥルーズ派の知識人。思想家・政治家・詩人・ジャーナリスト・歴史家でオスマン主義者、後にアラブ民族主義者。17歳の時に詩集を出版して以降、優れたアラビア語の詩や散文を発表し続け、20冊の著書と2000位上の論考を執筆し「雄弁の貴公子」として名高い〔ラジャ a p. 301〕。弟に政治家アーディル・アルスラーンがいる〔ラジャ c〕。 ==生涯== ===オスマン主義者として=== 1869年、レバノンに生まれる。生家アルスラーン家はレバノンのドゥールズ派の二大名望家の一つで、その構成員はアミールと呼ばれる〔ラジャ c〕。16歳の折にムハンマド・アブドゥフの指導を受け〔、カイロやイスタンブルに修学の旅を行い、個別の民族の自主を旨とする民族主義ではなく、多民族国家オスマン帝国を護持・擁護することこそ西洋に対抗し分割を免れる道であるとするオスマン主義の考えを深めた〔山内 pp. 63-67〕。 1912年4月、オスマン主義の考えを実行に移すため伊土戦争に参加してエンヴェル・パシャと知り合い友誼を深め、第一次世界大戦においてはドゥルーズ派の若者120人からなる義勇兵を率いてシナイ半島で戦った〔。1914年にはオスマン帝国議会に議席を得ている〔。 大戦においてオスマン帝国の敗退が決定的となると、彼は家族を残してスイス、ついでドイツに亡命し、同じく亡命していたエンヴェルら統一進歩党のメンバーにも手を差し伸べている〔。未だシャキーブはオスマン帝国再興の望みを捨てておらず、ケマル・パシャ率いるアンカラの大国民議会にも反対し、ソ連からの援助を引き出すことを模索するなどしていた〔。 しかし次第にオスマン帝国再興の望みは失われ、シリアのアラブ王国もフランスの介入によって崩壊。戦後、エンヴェルが主導したイスラーム革命団体連合にも名を連ねているが、この試みはすぐに失敗に終わった〔山内 p. 272〕。この頃から事実上エンヴェルと袂を分かち、オスマン主義からアラブ民族主義に転向していったと思われる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャキーブ・アルスラーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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