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シャミッソー ( リダイレクト:アーデルベルト・フォン・シャミッソー ) : ウィキペディア日本語版
アーデルベルト・フォン・シャミッソー[ちょうおん]

アーデルベルト・フォン・シャミッソー(Adelbert von Chamisso, フランス名ルイ・シャルル・アデライド・ド・シャミッソー・ド・ボンクールLouis Charles Adélaïde de Chamisso de Boncourt), 1781年1月30日1838年8月21日)はフランス出身のドイツ詩人植物学者である。現在ではドイツ語で文学作品を残したロマン派文学者として著名。


==伝記==
シャンパーニュ地方(現在のシャンパーニュ=アルデンヌ地域圏マルヌ県)のシヴリー=アントにあるボンクール(Boncourt)城に伯爵家の一族として生まれた。家族とともにフランス革命によってドイツに亡命しベルリンに住んだ。1796年プロイセン王妃の小姓となり、1798年には軍に入隊した。家族はまもなくフランスに帰国したが、彼はプロイセンに残った。その後博物学を学び、また文学に志して1803年に同志とともに 『ドイツ年鑑詩集 Der deutsche Musenalmanach』を創刊して詩を発表し、新進詩人として注目された。軍人としてナポレオン戦争に出征したが1806年にフランス軍に敗れ、フランスに戻ったが、既に両親は世を去っていた。
1807年ベルリンに戻って除隊し、1810年までベルリンで過ごした後、ヴァンデ県ナポレオンヴィルで教職についた。ところがスタール夫人のサークルに加わり、彼女のスイス・コペーでの亡命生活にも同行し、ここで植物学の研究に没頭して2年近くを過ごした。1812年にベルリンに戻り、ここでも研究を続けた。
1813年には友人ヒツィヒの子供たちのためにメルヘン風物語「影をなくした男(ペーター・シュレミールの不思議な物語)''Peter Schlemihls wundersame Geschichte''」を書き、これはフーケにより1814年に出版されシャミッソーの作品中で特に今日まで読まれている(現在は池内紀訳で岩波文庫)。
1815年に、植物学者としてロシアの探検船「リューリク」に乗り組み世界一周の旅に出た。この途上、サルパ原索動物)の研究で、世界で初めて世代交代を発見しているが当時は注目されなかった。1818年に帰還し、ベルリン植物園園長および科学アカデミー会員となった。1820年には年の離れた若い女性と結婚している。植物学者としての著述がいくつかあり、またいくつかの新種に命名者として名を残している(Cham.と略記)。この間は文学から離れ、文学者として復帰したのは48歳のときである。1829年に 『ドイツ年鑑詩集』を復刊し、後期の詩は主にここで発表された。なお、この雑誌によってフェルディナント・フライリヒラートなど新進のドイツ詩人が作品が発表され、世に出ている。
詩人としては自身の結婚生活に触発された作品「女の愛と生涯 ''Frauenliebe und -leben'' 」(1830)が最も有名で、のちにロベルト・シューマンカール・レーヴェにより歌曲集として作曲された。そのほか有名な詩集に「ボンクール城 ''Schloss Boncourt'' 」、「サラスとゴメス ''Salas y Gomez'' 」などがある。





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「アーデルベルト・フォン・シャミッソー」の詳細全文を読む




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