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シャムスッディーン・イリヤース・シャー(Shamsuddin Ilyas Shah, 生年不詳 - 1357年)、東インドのベンガル・スルターン朝、イリヤース・シャーヒー朝の君主(在位:1342年 - 1357年)。 ==生涯== シャムスッディーン・イリヤース・シャーの出生に関しては、東部イランのシースターンの出身と記録があるのみで、それ以上のことは不明である〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.131〕。 イリヤース・シャーは北ベンガルの長官であるアラー・ウッディーン・アリー・シャーの下で台頭したが、1342年に彼を殺害し、その地位を奪った〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。当時、ベンガル地方は北ベンガル(ラクナーワティー)、西ベンガル(サトガーオン)、東ベンガル(ソーナールガーオン)に分かれており、それぞれ長官が統治していた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.56〕。 同年、長官であったイリヤース・シャーはトゥグルク朝から独立し、ベンガル・スルターン朝を創始した(イリヤース・シャーヒー朝)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。創始者シャムスッディーン・イリヤース・シャーはベンガルの独立を強く意識し、その正当性と権威と明白にするため、自分の硬貨に「第2のアレクサンドロス、カリフの右腕」と記している〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.158〕。 1346年までにイリヤース・シャーはベンガル地方の政治的統一に成功したのち、対外遠征を敢行した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。彼はビハールを征服、オリッサ(東ガンガ朝)とネパール(マッラ朝)にも侵攻し、遠くチベットにまで遠征した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。ネパールやオリッサとの戦いでは莫大な戦利品を獲得した〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。 ことに1349年のイリヤース・シャーのネパールのカトマンズ盆地への侵攻は、この地を支配していたマッラ朝に壊滅的な打撃を与え、政情不安をもたらした〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。彼の軍勢は首都バクタプルのみならず盆地の都市カトマンズ、パタンを蹂躙し、その地の寺院、家屋を破壊・放火して、全土を灰燼に帰した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。盆地では7日間にわたり徹底して破壊、略奪を行い、そののちベンガルへと帰還した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.316〕。 また、イリヤース・シャーはオリッサに侵入した際、ジャージナガルを攻撃し、あらゆる抵抗を打ち破ったのち、チルカー湖まで進撃したという〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169〕。ベンガルに帰還したとき、彼は多数のゾウを含めた戦利品を持ち帰ったとされる〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.169〕。 イリヤース・シャーの絶え間ない征服活動の結果、領土はティルフットからチャンパラン、ゴーラクプルへと広がり、ヴァーラーナシーにまで版図を広げた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。だが、ベンガル・スルターン朝の台頭はトゥグルク朝にとって脅威であった〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。 そのため、1353年にトゥグルク朝の君主フィールーズ・シャー・トゥグルクは失地回復のため、ベンガルへと遠征軍を進めた。軍勢はチャンパランやゴーラクプルを通過し、ベンガルの首都パーンドゥアーを攻め落とした〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。 イリヤース・シャーはガンジス川とその支流に囲まれた強力なエクダーラーの要塞へと逃げ、そこに籠城した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。2ヶ月の包囲ののち、フィールーズ・シャーは退却するそぶりを見せ、イリヤース・シャーを誘い出して出てきたところで打ち破った〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。だが、イリヤース・シャーはエクダーラーへと再び逃げ、籠城し続けた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。 その後、1354年にトゥグルク朝とベンガル・スルターン朝の間で和平が結ばれ、コシ川を両国の国境とすることが定められた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』年表、p.29〕。イリヤース・シャーはフィールーズ・シャーと贈り物を交換し、トゥグルク朝の軍はデリーへと引き上げた〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.57〕。デリーとの友好的な関係を構築したことにより、イリヤース・シャーは東のアッサム方面へと支配を拡大することが出来た〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。 1357年、イリヤース・シャーは死亡し、息子のシカンダル・シャーが王位を継承した〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。 イリヤース・シャーは治世中に多くの業績を残した。そのの成功の要因のひとつは彼自身の人気にあったことである、と歴史家サティーシュ・チャンドラは述べている。フィールーズ・シャーがパーンドゥアーを占領したのち、貴族や聖職者らに人気を得るために土地を与え、都市の住民を味方にしようと試みたが、失敗している〔チャンドラ『中世インドの歴史』、p.166〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャムスッディーン・イリヤース・シャー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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