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シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール : ミニ英和和英辞書
シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール ( リダイレクト:シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール ) : ウィキペディア日本語版
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール[らん]

シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール(, 発音例1 発音例2 , 1754年2月13日2月2日説も)〔カトリック百科事典(米)、Brockhaus Enzyklopädie(独)では2月13日、ブリタニカ百科事典(米)、オクスフォード百科事典(英)では2月2日。〕 - 1838年5月17日)は、フランスフランス革命から、第一帝政復古王政七月王政までの政治家外交官である。ウィーン会議ではブルボン家代表となり、以後も首相外相、大使として活躍し、長期にわたってフランス政治に君臨した。日本では一般に「タレーラン」と略される。
姓はタレーラン=ペリゴールで、現代でもフランス有数の大貴族であるが、ブルボン王政ではオータン司教、第一帝政ではベネヴェント大公であった。日本語でのカナ表記はタレーランまたはタレイラン〔英語読みで「」となることから。〕。有名な画家ウジェーヌ・ドラクロワは、その容貌、容姿の酷似やフランス政府の保護などから、息子ではないかといわれる。フランス第二帝政の政治家シャルル・ド・モルニーは孫。
== 生涯 ==
シャルルマーニュの末裔ペリゴール伯爵の直系子孫を自称する名門貴族の家柄で、タレーラン侯爵の次男の伯爵家の長男として生まれたシャルル=モーリスは、内反足で片足に障害を持っていたため、父の職責であった連隊長の後を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進んだ。パリのサン・シュルピス神学校ソルボンヌ大学で神学を修め、1775年ランスのサン・ドニ修道院長の職に就いた。1779年司祭に叙階され、当時から反ローマ的な風潮の強かったフランスの教会においてもガリカニスムの急先鋒として知られた。一族の影響力によって順調に出世し、1788年ルイ16世によってブルゴーニュのオータン司教に任ぜられた。
1789年三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進した(万国共通の単位の制定〈後のメートル法〉を国民議会に提案したのも彼であると言われている)。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を自ら辞したが、ローマ教皇ピウス6世から、それまでの反カトリック教会的行為を咎められて破門されている。
1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが、フランスでジャコバン派による恐怖政治が吹き荒れたのでそのまま亡命し、アメリカ合衆国に渡った。
1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府外務大臣となるが、1799年に辞任する。ナポレオン・ボナパルトブリュメール18日のクーデター陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外務大臣となり、リュネヴィルの和約およびアミアンの和約の成立に貢献し、ナポレオンから高い評価を得る。1803年、ナポレオンの指示でサントル地方のヴァランセ城を購入・所有し、外賓の接待に使用した。ナポレオンの皇帝就任後は侍従長も兼ねたが、ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大戦略とは相容れず、1807年に外相を辞任。副大選挙人、元老院議員に就くも、ジョゼフ・フーシェとともにナポレオンの失脚を計画した。
1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。
1830年7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。自らの居城だったヴァランセ城近郊にあるノートルダム礼拝堂に埋葬された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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