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シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール(Charles-Guillaume Le Normant d'Étiolles,1717年5月8日 – 1799年3月18日)は、フランス国王ルイ15世の公式愛妾ポンパドゥール侯爵夫人の夫。 オルレアン出身の役人一家の嫡子であり、父エルヴェ=ギヨーム・ル・ノルマン・ドゥ・フォールは会計役人、叔父の資産家ル・ノルマン・ドゥ・トゥルネームは徴税請負人であり後のポンパドゥール侯爵夫人となるジャンヌ=アントワネット・ポワソンの法定後見人であった。叔父の手配により、1741年にジャンヌ=アントワネット・ポワソンと結婚し、また叔父の莫大な資産の相続人となった。 夫妻には男女2人の子が誕生した。1741年に生まれた男児は生後まもなく夭折し、1744年8月10日に長女アレクサンドリーヌ=ジャンヌ・デティオールが生まれた。夫妻の別居後はジャンヌ=アントワネットが長女を引き取ったが、胃の病(腹膜炎と考えられる)により9歳で亡くなった。 1745年6月、ルイ15世はジャンヌ=アントワネットを見初め、彼女に公式愛妾の地位を手配した。ルイ15世は夫のシャルル=ギヨームを遠ざけるために、オスマン帝国大使の地位を申し入れたが、シャルル=ギヨームはそれを拒否した。シャルル=ギヨームは妻と別居し、フランス一有名な「妻を寝取られた夫」となった。 シャルル=ギヨームは自分を裏切った妻を生涯許さなかった。ポンパドゥール侯爵夫人からの復縁の手紙を拒否し、彼女の臨終の際にも健康上の理由で立会いを断った。彼はパリで多くの女性と関係することで自分自身を慰め、何人かの私生児を生ませた。ポンパドゥール侯爵夫人の死後、シャルル=ギヨームは彼の私生児の母で踊り子であったマリー=エイメ・マルタと結婚し、ロワイヨーモン修道院近くのバイヨンの田舎屋敷に平穏に暮らした。彼と彼の新しい妻は恐怖政治の時代に1年以上拘留されたが、後に釈放され、パリのサンティエ通りの自宅で亡くなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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