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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
シャーフー(マラーティー語:छत्रपती शाहू, Shahu, 1682年5月18日 - 1749年12月15日)は、インドのデカン地方、マラーター王国の君主(在位:1708年 - 1749年)。 ==生涯== ===ムガル帝国の捕虜として=== 1682年5月18日、シャーフーはマラーター王サンバージーの息子として生まれた〔Satara 3 〕。 サンバージーは前年に祖父シヴァージーを継いだばかりの新王であった〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.210〕。 1689年2月、父王サンバージーはムガル帝国との争いで捕虜となり、皇帝アウラングゼーブの命により拷問に掛けられ、3月に処刑されてしまった〔〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.211〕。その死後(あるいは存命中)、マラーター王となったのはシャーフーではなく、叔父のラージャーラームであった〔〔。 1689年10月、首都ラーイガドが帝国軍に包囲された際、ラージャーラームはすでにシェンジに向けて逃亡しており、同月28日にラーイガドは陥落、シャーフーは帝国の捕虜となった〔。幼いシャーフーは捕えられたのち、帝国の宮廷で育てられることになった〔。 この間、シャーフーはマラーター王国の一官僚バーラージー・ヴィシュヴァナートと連絡を取り合っている〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.212〕。このやりとりはムガル帝国を介さずには出来きないものであり、シャーフーを何らかの形でマラーター側に対する切り札としようと試みたと考えられる〔。 事実、1700年3月のラージャーラームの死後、その息子シヴァージー2世の摂政母ターラー・バーイーのもと、マラーターが反撃に乗り出してくると、アウラングゼーブは長年捕虜としてきたシャーフーを以てマラーターと講和しようとした〔。アウラングゼーブはシャーフーを解放した上でマラーター王に擁立ようと考え、そのために何度かマラーター側と交渉が行われたが、結果としてそれは実を結ばなかった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャーフー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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