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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
シャーリー・アニタ・セントヒル・チザム(チゾム、、1924年11月30日 - 2005年1月1日)は、アメリカ合衆国の政治家、教育者、作家〔PBS P.O.V. documentary. ''Chisholm '72: Unbought & Unbossed''.〕。 1968年末の米下院選挙に当選してアフリカ系アメリカ人女性として初の米連邦議会下院議員となり、1969年から1983年までの7期14年間議員を務めた。1972年1月25日には民主党の大統領指名候補者予備選挙に、米2大政党では初めての黒人候補、また民主党としては初めての女性候補として出馬し、党大会では152票を獲得した(共和党では、1964年の大統領指名候補者選びに出馬したマーガレット・チェイス・スミス が初の女性候補者である )〔〔''Shirley Chisholm,'' Our Campaigns 〕。 == 生い立ち == 1924年11月30日、ニューヨーク市ブルックリン区に生まれる。父チャールズ・セントヒル (Charles St. Hill) は英領ギアナ出身で、キューバやバルバドスでの生活を経てニューヨークに来た移民で、母ルビー・シール・セントヒル (Ruby Seale St. Hill) はバルバドス南部の町クライストチャーチからニューヨークに移住し、お針子(裁縫婦)として働いていた移民であった〔Chisholm (1970) p.23〕。チャールズとルビーの二人はブルックリン中央部にあるバルバドス人地区で知り合い、やがて結婚して長女シャーリーを、翌年には次女オデッサ (Odessa) を、そして翌々年には三女ミュリエル (Muriel) を儲けた。チャールズは特別な技能のない単純労働者であったためパン屋の下働きや工場労働者などとして生計を立てていた。当時は大恐慌前の活況時代ではあったが、若い移民の一家にはそれ程の恩恵がもたらされることもなく、チャールズのルビーの収入だけでは生活は苦しかった〔Chisholm (1970) p.24〕。このため1928年のはじめ、シャーリーは二人の妹オデッサ、ミュリエルと共にバルバドスに住むルビーの母エミリー・シールに預けられることとなり、シャーリーはそれから1934年までの約7年間をバルバドスで過ごすこととなった〔。このときの体験についてシャーリーは自伝『 ''Unbought and Unbossed''』(1970年出版)の中で、「何年も後になってから、両親は私に本当に大事な贈り物をくれたんだということに気付きました。バルバドスの、あの伝統的で厳格な英国流の学校に私を通わせてくれたことです。私が今読み書きに不自由しないのはあのとき受けた教育のおかげです」と振り返っている〔Chisholm (1970) p.27〕。 アメリカに戻り女子高校を卒業したシャーリーは、1946年にブルックリン・カレッジを卒業し学士号を取得、1951年にコロンビア大学で初等教育学の修士号を取得した。卒業翌年チザムはブルックリンにある保育園園長の職を得るが、1年後の1953年からはマンハッタン区ローワー・イースト・サイドにあるハミルトン=マジソン・チャイルドケアセンターの所長となった。1960年にはニューヨーク市保育(デイケア)課のコンサルタントとなり、同市デイケアセンターのプログラムを監督している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シャーリー・チザム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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