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シャー・アーラム2世 : ミニ英和和英辞書
シャー・アーラム2世[しゃーあーらむ2せい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラム : [らむ]
 【名詞】 1. (1) lamb 2. (2) rump 3. (3) rum 4. (4) RAM (random access memory) 5. (P), (n) (1) lamb/(2) rump/(3) rum/(4) RAM (random access memory)
: [よ, せい]
 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation 

シャー・アーラム2世 : ウィキペディア日本語版
シャー・アーラム2世[しゃーあーらむ2せい]

シャー・アーラム2世ヒンディー語:शाह आलम द्वितीय, Shah Alam II, 1728年6月25日 - 1806年11月19日)は、北インドムガル帝国の第15代君主(在位:1759年 - 1806年)。単にシャー・アーラム(Shah Alam)とも呼ばれる。父は第14代君主アーラムギール2世、母はズィーナト・マハル
1758年11月29日、父であり皇帝であったアーラムギール2世は、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンに殺害され、これにより帝位を継承した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕。
1761年からはアワド太守シュジャー・ウッダウラと手を結んだが、1765年ブクサールの戦いイギリスに大敗北を喫した。その後、1771年マラーターシンディア家当主マハーダージー・シンディアと手を結び、1772年デリーへと戻った〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕。
1772年から10年にわたり、武将ミールザー・ナジャフ・ハーンが活躍したが〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.261〕、その死後、1788年にはその軍事活動の報復でシャー・アーラム2世はグラーム・カーディル・ハーンに盲目にされた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.262〕。その後、再びマハーダージー・シンディアの保護に入った。
1803年第二次マラーター戦争により帝都デリーが占領されたのち〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.263〕、1806年11月19日に死亡した。


==生涯==

===即位以前と即位===

1728年6月15日、シャー・アーラム2世ことアリー・ガウハールは、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世とその妃ズィーナト・マハルとの間に生まれた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕〔Delhi 13 〕。
1758年ガーズィー・ウッディーン・ハーンはアリー・ガウハールが邪魔になるだろうと判断し、デリーの邸宅を包囲したが、彼はその軍を突っ切って逃げた〔Delhi 13 〕。
アリー・ガウハールはデリーから遠く離れた地で暮らすこととなり、 ベンガルビハールでムガル帝国の領土の拡大のため遠征を計画し、1759年初頭からはベンガル太守の領土に進攻していた〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.88〕。それから14年間、彼はデリーに戻ることはなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕。
だが、その間、 11月29日に父であり皇帝であったアーラムギール2世は、宰相ガーズィー・ウッディーンに殺害され、宰相は代わりにシャー・ジャハーン3世を擁立した〔Delhi 12 〕。アーラムギール2世暗殺の報は、12月にはアリー・ガウハールのもとにも伝わり、同月24日に彼は帝位を宣し、シャー・アーラム2世となった〔Delhi 13 〕。
ここに帝国では2人の皇帝が併立することになったが、正式な皇帝はアーラムギール2世の息子たるシャー・アーラム2世であり、シャー・ジャハーンは対立皇帝にすぎないとされている。
===シャー・アーラム2世の遠征と第三次パーニーパットの戦い===
1760年初頭、シャー・アーラム2世は3万の軍を率いてベンガル太守の領土に進攻し、首都ムルシダーバードを占領しようした。だが、ベンガル太守ミール・ジャアファルイギリス東インド会社に援助を求めたため、シャー・アーラム2世の軍はその介入により敗れ、西ビハールまで逃げた〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、pp.88-89〕。
同年末にシャー・アーラム2世は再びベンガルに兵を進め、1761年1月15日にイギリス軍と交戦したが敗れた。その後、彼はイギリスのベンガル、ビハールにおける権益要求を認める代わりに、日額1800ルピーがあてがわれることとなった〔堀口『世界歴史叢書 バングラデシュの歴史』、p.89〕〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.260〕。
しかし、のちにイギリスと決裂し、アワド太守シュジャー・ウッダウラを頼ってファイザーバードへと赴き、その保護下に入った。アワド太守の保護下に入ったことで、1762年2月15日にシャー・アーラム2世はシュジャー・ウッダウラを帝国の宰相に任じた。
一方、宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンはアーラムギール2世の殺害後、傀儡の皇帝シャー・ジャハーン3世を擁して権力を行使していた。アフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーはすでに侵攻のさなかにあり、3月にこれに呼応する形でマラーター王国もデリーに向けて遠征軍をだした〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.218〕。
そして、1760年10月10日にシャー・ジャハーン3世は退位させられ、ガーズィー・ウッディーン・ハーンは失脚した。そして、シャー・アーラム2世がベンガル、ビハールで遠征をおこなっていたとき、1761年1月14日マラーター同盟の大軍とアフマド・シャー・ドゥッラーニーのアフガン軍が激突した(第三次パーニーパットの戦い)〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.264〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.218〕。
この日の戦いはマラーター同盟のみならず、ムガル帝国にとっても、インド全土にとっても運命を決定づけるものとなった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.264〕。この日の戦いで、マラーター同盟軍はアフガン軍に大敗し、おもだった指揮官や族長をはじめ多数が死亡した〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.264〕〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.219〕。
だが、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはマラーター同盟に大勝したものの、本国で反乱が起きたため帰国しなければならなかった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.264〕。とはいえ、インド最大の勢力だったマラーター同盟の結束は崩れ、のちにイギリスがマラーター同盟の内紛に介入するようになり、三次にわたるマラーター戦争を招くこととなった〔ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p.264〕。
なお、同年3月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはカンダハールへと帰還する際、シャー・アーラム2世を帝国の皇帝として追認した〔小谷『世界歴史大系 南アジア史2―中世・近世―』、p.229〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シャー・アーラム2世」の詳細全文を読む




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