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シュティルフリート・アンド・アンデルセン : ミニ英和和英辞書
シュティルフリート・アンド・アンデルセン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シュティルフリート・アンド・アンデルセン : ウィキペディア日本語版
シュティルフリート・アンド・アンデルセン[ちょうおん]

シュティルフリート・アンド・アンデルセン(Stillfried & Andersen)はライムント・フォン・シュティルフリートとヘルマン・アンデルセンが横浜に設立し、1876年から1885年まで営業していた写真スタジオである。日本写真社(Japan Photographic Association)とも称した。職人の着色による肖像写真風景写真で知られる。またフェリーチェ・ベアトが撮影したネガも引き継いでおり、プリントを販売していた。
== 社歴 ==
オーストリアの貴族(男爵)であるシュティルフリートは、1860年代の初頭から中ごろにかけ、少なくとも2度日本を訪問しているが、1868年から横浜に居住し、そこでベアトから写真を学んだ。1871年8月には、写真スタジオ''Stillfried & Co.''を設立。1875年にはアンデルセンが入社し、翌1876年からは二人の共同経営でシュティルフリート・アンド・アンデルセンが設立された。
会社はまた日本写真社とも称しており1875年にはその名前で登録されている〔Listed in the ''"Japan Gazette" Hong List and Directory'' of 1875. Gartlan, 142, 181.〕。1885年まで、双方の名前を適宜使い分けていた。
1877年にシュティルフリート・アンド・アンデルセンは、フェリーチェ・ベアトのネガを購入、シュティルフリートの作品と合わせて、その年に日本の風景と装束(Views and Costumes of Japan)を出版した。
二人の共同経営は、法的には1878年に解消されたが、アンデルセンは会社の名前を使い続けた。その後両者の間、さらにはシュティルフリートの兄弟まで巻き込んだ法廷闘争が繰り広げられた。1885年に日下部金兵衛がシュティルフリートのオリジナル・ネガの一部を購入、1880年から1890年の初めにかけて日下部が出版した写真集にシュティルフリートの撮影した写真が使われている。1885年、シュティルフリート・アンド・アンデルセンは最終的にアドルフォ・ファルサーリに買収されたが、そのときには二人とも既に日本を離れていた。1886年2月、ファルサーリのスタジオは火災にあい、その際にシュティルフリート・アンド・アンデルセンのネガも燃えてしまった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シュティルフリート・アンド・アンデルセン」の詳細全文を読む




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