翻訳と辞書
Words near each other
・ シュテファン・ベティヒャー
・ シュテファン・ベル
・ シュテファン・ベロフ
・ シュテファン・ホッケ
・ シュテファン・ホルンガッハー
・ シュテファン・ボティシャー
・ シュテファン・マイヤーホーファー
・ シュテファン・モクラニャッツ
・ シュテファン・モクラニャツ
・ シュテファン・モクラーニャッツ
シュテファン・モクラーニャツ
・ シュテファン・ユルゲンス
・ シュテファン・ユレチ
・ シュテファン・ライナルツ
・ シュテファン・ラドゥ
・ シュテファン・ラープ
・ シュテファン・リンデマン
・ シュテファン・ルツォヴィツキー
・ シュテファン・ルハ
・ シュテファン・ルフィエ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

シュテファン・モクラーニャツ : ミニ英和和英辞書
シュテファン・モクラーニャツ[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

テフ : [てふ]
 (n) TeX, (n) TeX
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

シュテファン・モクラーニャツ ( リダイレクト:シュテファン・モクラーニャッツ ) : ウィキペディア日本語版
シュテファン・モクラーニャッツ[ちょうおん]

シュテファン・ストヤノヴィッチ・モクラーニャッツ(、Stevan Stojanović Mokranjac、1856年1月9日 - 1914年)は、セルビア作曲家。教育者として多くの演奏家を育てセルビアにおける演奏技術の向上に貢献するとともに、セルビアの民族音楽の収集と発展に努め、セルビアの音楽学の基礎を築いた。また、多くの正教会聖歌を作曲してもいる。
なお、2006年現在の50セルビア・ディナール紙幣には、ヴァイオリンが傍にあしらわれたモクラーニャッツの肖像が使用されている。
==生涯==
ネゴティンNegotin)に生まれる。彼の両親の生誕地から、二番目の姓「モクラーニャッツ」(「モクラニェの住人」の意)を名乗るようになる。
ベオグラードギムナジウムを卒業すると、ベオグラード高等学校(現在の大学に相当)の自然科学・数学科に入学した。1879年ミュンヘンに行き、そこでヨーゼフ・ラインベルガーに師事して音楽を学ぶ。少ししてから、ローマでパリッツォティに師事して勉学を続けた。1884年にセルビアに戻り、ベオグラードのコルネリイェ・スタンコヴィッチ合唱団の指揮者を短期間務めた。
1885年から1887年までドイツのライプツィヒで音楽を学ぶ。1887年にセルビアに帰国し、ベオグラード合唱団の指揮者となった。1887年から1900年の間ベオグラードのギムナジウムで音楽を教え、1901年にはボゴソロヴィヤ(ベオグラード神学大学)に移り、そこで聖歌を教えた。
1899年には、スタニスラヴ・ビニチュキStanislav Binički)とツヴェトコ・マノイロヴィッチCvetko Manojlović)とともに、セルビアで初めての独立した音楽学校であるセルビア音楽学校をベオグラードに設立した。モクラーニャッツは以後永眠するまで、学校の監督にあたった。現在、この学校は彼の名が冠されている。モクラーニャッツは書かれざる民謡につき、多くの記譜を行った。
1914年、シュテファン・モクラーニャッツはマケドニアのスコピエで永眠した。58歳。
毎年、彼の生まれたネゴティンでは、彼の栄誉を記念してMokranjčevi dani(モクラーニャッツの日)に音楽祭が開かれる。ネゴティンにはモクラーニャッツの博物館もある。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シュテファン・モクラーニャッツ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.