|
ベルトルト・コンラート・ヘルマン・アルベルト・シュペーア(Berthold Konrad Hermann Albert Speer、1905年3月19日 - 1981年9月1日)は、ドイツの建築家、政治家。アルバート・シュペーア、アルベルト・シュペールなどとも表記される。アドルフ・ヒトラーが最も寵愛した建築家として知られる。ヒトラー政権のもとでを務め、終身刑に処されたルドルフ・ヘス、および音楽指揮者アウグスト・クビツェクを除けば戦後を生きたナチ関係者の中で最もヒトラーと親しかった人物として知られる。 == 生涯 == === 生い立ち === 1905年3月19日正午にドイツ帝国領邦バーデン大公国の都市マンハイムに生まれる。父はアルベルト・フリードリヒ・シュペーア(Albert Friedrich Speer)。母はルイーゼ・マティルデ・ヴィルヘルミーネ(Luise Mathilde Wilhelmine、旧姓ホメル(Hommel))。兄にヘルマン(Hermann)、弟にエルンスト(Ernst)がいる。父アルベルト・フリードリヒはマンハイムでも名の知れた裕福な建築家だった。祖父ベルトルトもドルトムントで成功した建築家で、彼がシュペーア家に財をなした。シュペーアが生まれた頃の一家は大変裕福であったので、第一次世界大戦で節約を迫られるまで自家用車を2台保有していた。この自動車はシュペーアの少年時代の技術的夢想の中心であったという〔『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)17ページ〕。シュペーアはマンハイムの上級実科学校では数学で最優秀の成績をとった。そのため初めは数学者になることを夢みたという。しかし父の反対にあい、父や祖父と同じく建築家の道を歩むことになった〔『ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録』(読売新聞社)21ページ〕。 地方の大学より中央の有名な大学で建築を学ぶ夢は1923年のハイパーインフレーションで断たれ、シュペーアはカールスルーエ工科大学に進学した。1924年、インフレが安定化した頃、より格の高い大学であるミュンヘン工科大学に転学した。1925年、彼はさらにベルリン工科大学に転学している。彼はこの大学で、有名な建築家で機能主義者であったハインリヒ・テセノウ(:de:Heinrich Tessenow)の指導の下で学んだ。シュペーアはテセノウを非常に尊敬しており、1927年に彼の試験を通った後は助手となり、テセノウのゼミで週に3日学生に講義を行うなどした。この時期、1928年、シュペーアは7年前に知り合ったマルガレーテ・ヴェーバーと結婚している。テセノウは決してナチズムに賛同しなかったが、彼の学生にはナチズムに賛同するものが多く、学生らはシュペーアにベルリンのビアホールで行われる党集会に行くよう勧めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アルベルト・シュペーア」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Albert Speer 」があります。 スポンサード リンク
|