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シュボタの海戦(シュボタのかいせん、英:''Battle of Sybota'')は紀元前433年にケルキュラ・アテナイ連合艦隊とコリントスの間で戦われた海戦であり、ペロポネソス戦争のきっかけとなった。この海戦はトゥキュディデスによればこれまでのギリシア人同士の海戦の中では最大規模のものであった。 == 背景 == ケルキュラの殖民都市エピダムノスで内紛が起こり、エピダムノス市内の派は母都市であったことから、当時ギリシア二番目の海軍力を有していたケルキュラに援助と調停を求めてきた。しかしケルキュラはそれを無視したため、エピダムノス人はデルフォイの神託に従ってコリントスに庇護を訴えた。これまでのケルキュラのコリントスを軽んじた行いもあってかコリントスはエピダムノスの要請を受け入れ、エピダムノス移住希望者とコリントス守備隊が陸路でエピダムノスに向かった。自分の殖民都市がコリントスの傘下に入ったことにケルキュラは怒り、25隻の船を派遣してその時ケルキュラにいた追放者の受け入れとコリントス人の送り返しを命じた。エピダムノスは要求を突っぱねたため、ケルキュラは軍を派遣してエピダムノスを包囲した。その知らせが届いたコリントスはエピダムノス入植希望者を募ると同時に同盟国と共に艦隊を編成し、ケルキュラに軍使を送って宣戦するとエピダムノスへ向かった。エピダムノスにコリントスおよびその同盟軍が着くとケルキュラ艦隊との間で海戦が起こり、ケルキュラの一方的な勝利に終わった。同日にエピダムノスはケルキュラに降服した。 この海戦の後、コリントスは艦船の建造と海軍力の増強を開始した。それに対しケルキュラはアテナイと相互防衛協定を結んだ。そしてアテナイからケルキュラへの援軍としてラケダイモニオス、ディオティモス、プロテアスに率いられた10隻の艦隊を派遣した。コリントスもまたケルキュラにクセノクレイデスその他3名が率いる150隻の艦隊(内訳はコリントス90隻、アムプラキア27隻、メガラ12隻、エーリスとレウカスそれぞれ10隻、アナクトリオン1隻)を送り、艦隊はケイメリオンに投錨した。一方ケルキュラはミキアデス、アイシミデス、エウリュバトス率いる110隻を派遣し、シュボタ諸島の一つに向かい、後でアテナイ艦隊もそれに加わった。そしてケルキュラの陸上部隊はレウキムメ岬に配された。準備を済ませるとコリントス艦隊は海戦をせんと出航し、ケルキュラ艦隊もまたそれに応じた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シュボタの海戦」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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