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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
クルト・フェルディナント・フリードリヒ・ヘルマン・フォン・シュライヒャー(Kurt Ferdinand Friederich Hermann von Schleicher, 1882年4月4日 - 1934年6月30日)は、ドイツの軍人、政治家。軍人としての最終階級は名誉階級歩兵大将。 ヴァイマル共和政の時代、パウル・フォン・ヒンデンブルク大統領やヴィルヘルム・グレーナー国防相からの信任を背景に職業軍人ながら「政治将軍」として巨大な政治的権力を振るう。1932年6月にはフランツ・フォン・パーペン内閣を擁立し、彼自身も同内閣の国防相として入閣した。しかし後にパーペンを見限り、同内閣を崩壊させた。その後、自ら首相となるも、国家社会主義ドイツ労働者党党首アドルフ・ヒトラーとパーペンの協力によりシュライヒャー内閣は打倒され、1933年1月30日にはヒトラーを首相、パーペンを副首相とするヒトラー内閣が誕生した。その後は引退生活を送ったが、1934年6月30日に「長いナイフの夜」事件において親衛隊により夫人もろとも殺害された。 == 経歴 == === 前半生 === ドイツ帝国領邦プロイセン王国ブランデンブルク・アン・デア・ハーフェルに陸軍士官の息子として生まれる〔LeMO 〕。フォン・シュライヒャー家はブランデンブルクの旧家であった〔ベネット、p.170〕。 1896年から1900年にかけてベルリンのグロス・リヒターフェルデ (:de:Groß-Lichterfelde) にあった名門のプロイセン高級士官学校 (:de:Preußische Hauptkadettenanstalt) に在学した〔。 1900年3月、少尉に任官し近衛第3歩兵連隊第5中隊に配属される。そこで同僚のオスカー・フォン・ヒンデンブルク(パウル・フォン・ヒンデンブルクの息子)と親しくなる〔〔リーチ、p.30〕。その他この部隊ではエーリッヒ・フォン・マンシュタインとも知り合った。1906年、同連隊の軽歩兵大隊に配属。 1909年に中尉に昇進し、プロイセン戦争大学(陸軍大学)(de)に入学した〔。同大学でヴィルヘルム・グレーナーに師事した。シュライヒャーはクルト・フォン・ハンマーシュタイン=エクヴォルトと並んでグレーナーの最も優秀な教え子であったという〔。以降シュライヒャーはグレーナーによって引き立てられることとなる〔。 1913年に戦争大学を卒業し、参謀本部に配属された〔。グレーナーが運輸部長になるとシュライヒャーを部下として運輸部門に招いた〔。そこでのちに因縁の関係となるフランツ・フォン・パーペンと知り合った。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると、大尉として兵站部に所属。1916年9月に「ドイツ国民の労働力を祖国防衛のために動員する」ことを目的とする戦時局(Kriegsamt)が創設され、グレーナーがその局長に就任した〔第一次世界大戦中における自由労働組合の超経営的参加政策(ドイツ・1914年-1918)山田高生著 〕。シュライヒャーも11月にここに招かれ、グレーナーを補佐した〔。 1917年5月に短期間第237歩兵師団参謀としてガリツィア戦線に転出し、二級鉄十字章を得た〔〔〔lexikon der wehrmacht 〕。しかしそれ以外は大戦の大半を「書類机の将校」として過ごした〔〔。1918年7月に少佐に昇進。 1918年10月26日に上官グレーナーがルーデンドルフに代わって参謀次長となる〔阿部、p.41〕。シュライヒャーもスパの大本営の参謀本部でグレーナー参謀次長の補佐にあたった〔。11月3日にキール軍港で水兵の反乱があり、反乱水兵たちは「兵士協議会」を創設してキール軍港を実効支配した。以降「ドイツ革命」と呼ばれる反乱がまたたく間にドイツ全土に広まった〔阿部、p.41-42〕。11月9日にはスパの大本営にいたドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ(翌10日に中立国オランダへ亡命した)、ベルリンでドイツ社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンが共和国宣言を行った〔阿部、p.43〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「クルト・フォン・シュライヒャー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Kurt von Schleicher 」があります。 スポンサード リンク
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