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シュリーランガパトナ条約 : ミニ英和和英辞書
シュリーランガパトナ条約[しゅりーらんがぱとなじょうやく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)
条約 : [じょうやく]
 【名詞】 1. treaty 2. pact 
: [やく]
  1. (adv,n) approximately 2. about 3. some 

シュリーランガパトナ条約 : ウィキペディア日本語版
シュリーランガパトナ条約[しゅりーらんがぱとなじょうやく]

シュリーランガパトナ条約(シュリーランガパトナじょうやく、英語:Treaty of Srirangapatna)は、1792年3月18日インドシュリーランガパトナにおいて、マイソール王国イギリス東インド会社ニザーム王国マラーター王国との間に結ばれた条約。シュリーランガパッタナ条約(Treaty of Srirangapattana)とも呼ばれる。
この条約でマイソール王国はトラヴァンコール王国コーチン王国などを除くケーララ地方全域をはじめとするマイール王国の約半分の領土などが取り決められた。
==概要==

1792年2月24日マイソール王国ティプー・スルターンイギリス側のチャールズ・コーンウォリスとの間で第三次マイソール戦争の和平が結ばれ、3月18日シュリーランガパトナ条約を結んだ〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206〕。
同年3月18日、マイソール王国とイギリスおよびその連合軍であるマラーター王国ニザーム王国との間に和平条約であるシュリーランガパトナ条約が締結された〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206〕。とはいえ、この条約はマイソール側にとっては非常に厳しいものであった。
まず、ティプー・スルターンは和平を結ぶにあたり降伏を認めなければならず、マイソール王国はイギリス、マラーター王国、ニザーム王国の三者に対し、実にその領土の半分(あるいはそれ以上)を割譲しなければならなかった〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.206〕〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.72〕。これにより、イギリスはマイソール王国のカリカット地方バーラーマハル地方、ニザーム王国は同国の北部を、マラーター王国は東北部をそれぞれ割譲された。
次に、マイソール王国はイギリスおよび同盟勢力に対し、多額の賠償金を支払わなければならなかった〔ガードナー『イギリス東インド会社』、p.174〕。その額は実に3000万ルピーにも及ぶ高額の賠償金であった〔チャンドラ『近代インドの歴史』、p.72〕。無論、これらの捕虜は全員解放しなければならなかった〔ガードナー『イギリス東インド会社』、p.174〕。
最後に、ティプー・スルターンは高額の賠償金の支払いを保証するため、愛する二人の息子をイギリスに差し出さなければならなかった〔ガードナー『イギリス東インド会社』、p.174〕。彼は息子らが人質として差し出される際、悲痛な気持ちで見送ったのだという〔ガードナー『イギリス東インド会社』、p.174〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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