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シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争(シュレースヴィヒ=ホルシュタインせんそう)は、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を巡って、デンマークとプロイセン王国および関係国によって行われた戦争。2回にわたって行われ、第一次は1848年から1852年にかけて休戦を挟んで断続的に、第二次は1864年に行われた。第二次の戦争がプロイセン側の勝利となり、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国はプロイセンとオーストリア帝国の管理下に置かれ、後にプロイセンの州となった。高等学校世界史教科書などではデンマーク戦争と表記されている。 戦争勃発の起因となったのは、19世紀に沸き上がった両公国民による民族主義の昂揚であった。フランスで起きた2月革命はヨーロッパ諸国へ飛び火して1848年革命となり、1848年革命は各国で民族意識の高揚を起こした。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国はデンマーク王の継承権によりデンマーク王国の勢力下にあり、北欧では汎スカンディナヴィア主義が台頭する一方、両公国の住民の多くはドイツ系であり自治とドイツへの統一を求めていた。この問題はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題(デンマーク語では南ユラン問題)と呼ばれていた。 == 第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争 == 戦争の発端は、1848年にデンマーク王のクリスチャン8世が没し、フレデリク7世が即位すると憲法を発してシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国をデンマークに併合することを命じたことに始まる。両公国は反発し、ドイツ連邦の支援を受けて仮政府を樹立した。ホルシュタイン公国で起きたアウクステンブルク公クリスティアン・アウグスト2世(デンマーク王家オレンボー家の支流アウグステンブルク家の当主)その弟フリードリヒによる暫定政府の樹立である。この政府はデンマークからの分離を目指しており、背後にプロイセン王国の支援があった。暫定政府の樹立は、デンマークへの反乱を意味していた。デンマークは反乱の鎮圧、そして両公国のデンマークへの完全併合を目的として、シュレースヴィヒに侵攻した。プロイセン介入の可能性がありながらデンマークが強気の攻勢に出たのは、その背景に北欧全土に沸き上がった民族主義、汎スカンディナヴィア主義の昂揚があったからである。特にスウェーデンはデンマークを後方から支援した。中立主義(武装中立)を標榜しながら、義勇軍をデンマーク軍に参加させ、ほぼ正規の兵を戦闘に参戦させたのである。さらに緊急時に備え、スコーネにおよそ1万人を待機させ、フュン島に4,500人のスウェーデン軍を派遣していた程である。スウェーデンはデンマークが苦境に立たされた場合に備え、中立主義を放棄する意志を秘めていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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