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譙 周(しょう しゅう、199年以前 - 270年)は、中国三国時代から晋の政治家、儒学者。字は允南。譙熙・譙賢・譙同の父、譙秀・譙登の祖父。 ==経歴== 巴西郡西充国の人。身長は八尺、誠実で飾り気はなく、頭脳明晰だったが、不意の質問に上手く答えるような機転は利かなかった。幼くして父を亡くしたため家は貧しかったが、勉強熱心で六経を精細に研究し、書簡に巧みで、天文の現象の解釈にも明るかった。 建興年間に諸葛亮に登用され、劉禅に仕え勧学従事になった。諸葛亮が死去した時は譙周は家にいたが、直ちにその場に駆けつけた。諸葛亮の死後、その遺志を受けて姜維が北伐を再開したとき、その無謀さを諌めるために陳祗との討論を元に『仇国論』を書いた。姜維の反応は記録されていないが、陳祗の死去した258年から4年間、姜維は北伐を行わなかった。また彼は太子僕に任命され後に、光禄大夫に昇進した。ただ学問や教育の分野では重用されたが、政治に関わることはなかった。263年、魏が蜀漢に侵攻して来ると、真っ先に劉禅に降伏を勧めた。劉禅は譙周の提案に従い、魏に降伏した。その後、魏の相国であった司馬昭に陽城亭候に封ぜられた。 譙周が死去する前年の269年に、弟子の陳寿が休暇を取るため譙周の元へ別れの挨拶に来た〔裴松之註に引用された『華陽国志』(常據(字は道将)著)巻十一「陳寿伝」の「後賢志」には、李驤(李福の子)も門下生だったとある。〕。譙周は陳寿に、「その昔、孔子は72歳で、劉向・揚雄は71歳でこの世を去った。今わしの年は70を越えている。できれば孔子の遺風を慕い、劉向・揚雄と軌を同じくしたいものだ。おそらく次の年を迎えることなく、きっと長の旅路に出るであろうから、二度と会うことはないであろう」と告げたという。このため陳寿は、譙周は未来を予知することができる術を得ていたのであろう、と評している。譙周は杜瓊の讖緯(予言)を学んだが、魏が漢に取って代わる存在になることや、司馬昭の死を予言していたのだという。 270年秋、西晋に散騎常侍に任命されたが、重病のため拝命せず、その冬死去した。 後世では投降主義者と見做され評価は低い。例えば王夫之『読通鑑論』では「姦佞売国」と罵倒されている。 小説『三国志演義』では、劉璋が劉備に降伏することを率先して賛成したため、黄権や劉巴から殺されかけている。それが、後に劉禅に降伏を進言する伏線になっている。また、『仇国論』も姜維に一笑に付されており、このため実際の歴史より北伐が1回多くなっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ショウ周」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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