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シヨノロマンは日本で生産、調教された元競走馬で繁殖牝馬。当時デビュー2年目の若手騎手であった武豊が初めて中央競馬の牝馬三冠戦線に挑んだ際のパートナーである。トライアル競走と本番のすべてで好走したが、あと一歩のところでG1の栄冠を手にすることはできなかった。 ※馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で記述する。 == 経歴 == 特に良血ではなかったが、セリ市に出された際、牝馬離れした雄大な馬体を調教師の庄野穂積が気に入り、彼の甥である庄野昭彦〔JRA所属の調教師である庄野靖志の父。〕が365万円で購入する〔シヨノロマン(昭和63年 ローズS) 〕。 デビューは4歳になった1988年2月6日と遅かったが、約1か月の間にチューリップ賞(当時はオープン特別競走)まで3連勝してクラシック戦線に名乗りをあげる。桜花賞では好スタートから3番手につけ、直線で最内からいったん先頭に立つが、追い込んできた同じ庄野厩舎所属のアラホウトクの2着に敗れる。オークストライアルの4歳牝馬特別でもアラホウトクの2着から本番のオークスに臨み、中団追走から4コーナーで最内を回って先団にとりつくも、直線で伸びきれず5着に終わった。レース後に左前脚の骨折が判明し、休養に入っている。 秋はエリザベス女王杯のトライアルレース最終戦であるローズステークスに間に合い、中団から差し切って重賞初制覇。ライバルのアラホウトクが秋2戦とも見せ場なく敗れ、オークス馬のコスモドリームが骨折で回避したことから、エリザベス女王杯では初の1番人気に推される。レースはキャッチミーの大逃げで前半1000メートルが58.2秒という超ハイペースの中、離れた最内の4番手で追走。4コーナーでキャッチミーが馬群に沈むと前で粘る2頭の外に持ち出し、直線残り200メートルの時点で先頭に立つ。ところが後方待機策をとったミヤマポピーの強襲に遭い、ゴール寸前にハナ差で差し切られて2着に敗れた。レース後に武は「痛い2着、一番悔しい2着」という表現でこの敗戦を振り返っている。その後は阪神牝馬特別で古馬と初対決し、4着で4歳シーズンを終えている。 5歳時は中央と地方のオープン特別を各1勝するも、重賞では高松宮杯で3着に入った以外はすべて大敗して、この年は6戦2勝。ただし、中央オープンのシルクロードステークスでは58kgを背負っての勝利、地方オープンの名古屋市制100周年記念はオープン競走でありながら1着賞金が帝王賞と同額、中央のGII並みと破格の高額賞金が設定された交流競走であり、中央、地方の実力馬〔中央からは当時重賞3勝でシヨノロマンに勝ったこともあるリキアイノーザン、重賞2勝のプレジデントシチーなど、シヨノロマンも含めて4頭が参戦。地方からは川崎記念、ダービーグランプリを勝ったアエロプラーヌなど8頭が参戦した。〕がそろった中でのレコード勝ちと、力のあるところは示した。マイルチャンピオンシップの10着を最後に引退し、田中春美牧場で繁殖入りした。 繁殖入り後の産駒の活躍はスイートピーステークス2着でオークスにも出走した初仔のツキノロマンが目立つ程度だった。2010年の出産を最後に種付けは行われず、2013年3月2日付で死亡を理由に繁殖牝馬としての供用が停止されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シヨノロマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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