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シリアのエフレム(アラム語 / シリア語: , '; ; 、306年頃 - 373年)は、4世紀のシリアで活躍したキリスト教の修道士、聖歌作家、神学者、輔祭(助祭・執事)。正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会における聖人。正教会ではシリアの克肖者聖エフレムと呼ばれる。 ニネヴェに生まれたエフレムはアリウス派の反駁などに活躍し、シリア語で多数の祈祷文(聖歌)を著作した。シリアでは今もそのまま用いられている。彼の祈祷文はギリシア語にも多数翻訳されている。 ; ; 、306年頃 - 373年)は、4世紀のシリアで活躍したキリスト教の修道士、聖歌作家、神学者、輔祭(助祭・執事)。正教会・東方諸教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会における聖人。正教会ではシリアの克肖者聖エフレムと呼ばれる。 ニネヴェに生まれたエフレムはアリウス派の反駁などに活躍し、シリア語で多数の祈祷文(聖歌)を著作した。シリアでは今もそのまま用いられている。彼の祈祷文はギリシア語にも多数翻訳されている。 == 生涯(伝承) == ''以下は、確認された歴史的事実としての記述ではなく、教会の伝える伝承の概略である。'' 4世紀初頭にニネヴェの貧しく敬虔な農家に生まれた。エフレムの祖先は乞食であり、農家となったのは祖父の代からであるという〔『諸聖略伝 二月』51頁‐52頁〕。 まだ迫害が続いている頃であったが、敬虔なキリスト教徒であった一家で、エフレムも敬虔な信者となるよう教育された。しかしエフレムは少年時代は短期でわがままな性格であり、よく喧嘩をし浅慮な言動をとり、神の存在にすら疑問をもっていた〔。 ある日、羊飼いに一夜の宿を頼んだエフレムは、狼が羊を噛み殺していったことを「エフレムが盗賊を手引きして羊を盗もうとした」と誤認した羊飼いによって訴えられ、無実の罪で投獄されてしまった。牢獄には他に2人の無実の罪で投獄された者がいた。3人は無実の罪で牢に居ることを憤り、忍耐して日々を送っていた〔『諸聖略伝 二月』52頁‐53頁〕。 しかしある夜、エフレムの夢の中に声が聞こえ、神の旨を思い起こしてこれまで自分のしてきたことを省みるよう告げられたエフレムは、自分の今の境遇は過去の罪のためであるとさとり、仲間の2人にもこのことを語った。そして揃って3人とも悔改して敬虔な者となった。のちにエフレムは潔白が証明されて釈放された〔。 深い痛悔の念をもっていたエフレムは釈放後、近隣の山に去って隠遁者となった。ニネヴェにおいて優れた禁欲者として知られた主教(司教)イアコフ(ヤコブ)の弟子となって指導を受け、高徳者となっていった。イアコフはエフレムの徳性と才能が発揮されるよう配慮し、説教と、学校での子どもたちへの教育を行わせ、第一全地公会にイアコフが赴く際には随行させた。イアコフの永眠後、エデッサに赴き、そこの修道士たちと交流しつつ、多くの人に説教を行い、またアリウス派への反駁と、同調者への説得・教化にあたった〔『諸聖略伝 二月』53頁‐54頁〕。 その従順さゆえに自分を誰よりも罪深いものとみなしていたエフレムは、晩年、エジプトの荒野の偉大な隠遁者たちの偉業を見たいと思いエジプトに赴いた。エジプトでエフレムは尊敬すべき客人として迎えられ、エフレムも隠遁者たちとの交わりの中に大きな慰めを得た〔『諸聖略伝 二月』58頁‐59頁〕。 帰路、エフレムはカッパドキアのカイサリアに立ち寄って聖大ワシリイ(バシレイオス)のもとを訪れた。ワシリイはエフレムを司祭に叙聖(叙任)しようとしたが、エフレムは固辞し、何度かの説得によってようやく輔祭職に就くことを承諾した。のちにワシリイはエフレムを主教として招こうとするが、エフレムは謙虚さから死ぬまで輔祭職にとどまった〔。 エデッサに戻ったエフレムは、晩年を隠遁者として過ごそうと考えていたが、神の旨によって再び人々のために働いた。エデッサで飢饉が発生した折には、富裕な人々に食物を分け与えるよう説得し、寄付金で救済施設を建設して多くの貧民や病人を救った〔。 その後、エフレムは再びエデッサ近郊の洞穴に隠遁し、死ぬまでそこにとどまった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シリアのエフレム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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