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シリル・スーク3世(Cyril Suk III, 1967年1月29日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・プラハ出身の男子プロテニス選手。長年にわたり、ダブルスのスペシャリストとして活動してきた。彼の家族は名門のテニス一家で、母親は1962年ウィンブルドン選手権女子シングルス準優勝者ベラ・スコバであり、姉は4大大会女子シングルスで4度準優勝したヘレナ・スコバである。父親のシリル・スーク2世は長年「チェコスロバキア・テニス連盟」の会長を務めた人で、シリルとベラの間の1人息子にも同じ名前をつけた。 == 来歴 == シリルはキャリアを通じてシングルスにほとんど出場せず、ダブルスのみに出場試合を絞ってきた。ATPツアーのトーナメントでは、シリルのシングルス成績は1勝17敗である。男子ダブルスではこれまでにツアー通算32勝を挙げ、1998年全米オープンでサンドン・ストール(オーストラリア)とペアを組んで優勝した。混合ダブルスでは4つのタイトルを獲得し、全仏オープンで1991年、ウィンブルドンで1992年・1996年・1997年に優勝している。そのうち3つは姉のヘレナとのコンビだが、1992年ウィンブルドンだけはラリサ・ネーランド(ラトビア)と組んだ。 シリルは姉のヘレナとともに、幼少時から両親にテニスを習った。母親のベラが1982年5月13日に死去した時、シリルは15歳、ヘレナは17歳であった。母親の死から3年後、シリルは1985年の世界ジュニア・ダブルス選手権でペトル・コルダと組んで優勝する。1988年にプロ入りし、1989年8月にイタリア・セントビンセント大会でダブルス初優勝。1991年全仏オープンで、シリルとヘレナは姉弟ペアとして4大大会混合ダブルス初優勝を果たした。1992年はウィンブルドンの混合ダブルスでラリサ・ネーランドと組んだ優勝があるが、これはシリルがヘレナ以外の選手と組んで獲得した唯一の混合ダブルス優勝である。男子ツアーでは、シリル・スークは1991年から1994年までの間、トム・ナイスン(オランダ)とペアを組んで大半のトーナメントに出場した。 1995年、スークは同じチェコのダニエル・バチェクと組んで男子ツアーのダブルス大会に4勝を挙げたが、1996年2月を最後にバチェクとのペアを解消する。1996年と1997年の2年連続で、シリルとヘレナの姉弟はウィンブルドンの混合ダブルスで2連覇を達成した。シリルは1992年にサブチェンコ・ネーランドと組んだ優勝と合わせて、ウィンブルドン混合ダブルスで総計3勝を挙げたことになる。1997年からは、男子ツアーでサンドン・ストールと組む機会が増えた。サンドンは往年のオーストラリアの名選手、フレッド・ストールの息子である。スークとストールの“親子2代選手ペア”は、1998年全米オープンで宿願の4大大会男子ダブルス初優勝を達成した。2人は全米ダブルス決勝でダニエル・ネスター(カナダ)&マーク・ノールズ(バハマ)組に 4-6, 7-6, 6-2 の逆転勝利を収め、ようやく初めての頂点をつかむ。しかし、この勝利がスークとストールの両選手にとって唯一の4大大会男子ダブルス優勝になった。 2002年から2004年にかけて、シリル・スークは3年連続で男子ツアーのダブルスで年間3勝を挙げた。パートナーは同じチェコのマルティン・ダムと組み、とりわけ6月のオランダ・スヘルトーヘンボス大会ではこのペアで3連覇を達成している。スークとダムは2004年アテネ五輪の男子ダブルスにもチェコ代表選手として参加し、スークは37歳にして初のオリンピック出場を果たした。2005年のスヘルトーヘンボス大会ダブルス4連覇が、最後のダブルス優勝になった(32勝目)。2007年全米オープンの男子ダブルス1回戦敗退を最後に、スークは現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シリル・スーク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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