|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦争 : [せんそう] 1. (n,vs) war
シュレージエン戦争(独:Schlesische Kriege)は、18世紀中ごろにヨーロッパで行われた戦争であるオーストリア継承戦争と七年戦争のうち、オーストリアとプロイセンがシュレージエン地方の帰属を巡って戦った局地的戦役の総称である。文脈によっては二つの戦争の別称として使われていることもある。英語読みでシレジア戦争(Silesian Wars)という。 1740年にプロイセンのフリードリヒ大王が、マリア・テレジアの即位に伴って各国がオーストリアを攻撃する形勢であったのに乗じ、シュレージエンの獲得を目指して同地に侵攻したのが始まりである。オーストリア継承戦争中、講和を挟んで2度争い、オーストリアは敗北してシュレージエンを割譲した。その後七年戦争でオーストリアはシュレージエンの奪還を目指したものの、敗れて講和しプロイセンのシュレージエン領有が確定した(後に、1815年 - 1919年)。 このときオーストリアに残された領域をといい、後のチェコ領スレスコとなった。 == シュレージエン侵攻の理由 == シュレージエンはもともと複数の諸公領からなり、ホーエンツォレルン家はそれらのうちイェーゲルンドルフ公領、オッペルン公領、ラティボル公領を16世紀から17世紀にかけて統治していた。このうち後の2公領は、ホーエンツォレルン家のシュレージエンにおける勢力拡大を嫌った神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の干渉のため手放したものの、イェーゲルンドルフ公領はホーエンツォレルン家の世襲領として保たれた。しかし三十年戦争の結果、プロテスタント側であったイェーゲルンドルフ公ヨハン・ゲオルクは皇帝フェルディナント2世に領地を取り上げられ、ホーエンツォレルン家はシュレージエンにおける領地を一度喪失した。 またこれとは別にホーエンツォレルン家は、リーグニッツ公領、ブリーク公領、ウォーラウ公領の3公領について継承権を持っていた。これはリーグニッツ公フリードリヒ2世とブランデンブルク選帝侯ヨアヒム2世との間に結ばれた相続協定によるものであったが、この取り決めをフェルディナント1世は承認せず無効としていた。3公領の最後の所有者であったシュレージエン系ピャスト家のゲオルク・ヴィルヘルムが死去したとき、皇帝レオポルト1世は大王の曾祖父フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の相続を認めず、3公領をベーメン王国に接収した。このときレオポルト1世は代わりにシュヴィーブスを与えて大選帝侯をなだめることにしたが、結局は後にシュヴィーブスを取り戻したので、大選帝侯の後を継いだフリードリヒ1世は3公領に対する請求権を放棄しなかった。 このようにプロイセンには一応、シュレージエンの少なくない領域について自国のものと主張することのできる根拠があったわけであるが、継承権の主張を取り下げていた時期も長く、正当性は微妙だった。しかし戦争を仕掛けるにはそれで十分であった。 そもそもプロイセンがシュレージエンについての権利の主張を再開したのは、大王の父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世時代のことであって、そのきっかけとなったのは、皇帝カール6世が、プロイセンが主張していたライン川両岸にあるユーリヒ公領とベルク公領の継承権について、プロイセンがオーストリアの国事勅書を承認するのと引き換えに認めると約束しておきながら、いざとなるとフランスの後援を得たプファルツ家の主張を容れてプロイセンの主張を取り下げさせたことである。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、オーストリアに約束の履行を求め、プファルツ選帝侯領となったユーリヒ=ベルク公領がだめなら代わりにと、シュレージエン3公領への主張を復活させた。 経済的にはシュレージエンという土地は鉱業が盛んで、手工業が発達し、人口も多く豊かな土地であった。当時のプロイセン全体の人口が250万人であったが、シュレージエン1州で150万の人口があった。シュレージエンを得ることができればプロイセンの国力を大いに高めることができる上に、オーストリアの国力を大幅に低下させて積年の恨みを晴らすことも出来たのである。地理的にはシュレージエンはプロイセンにとって死活的に重要なオーデル川上流を有し、一方で自然障害となる山地がベーメン、メーレンとの間にそびえている。シュレージエンを有せばザクセンとポーランドを分断し、しかもザクセンを北と東から包囲しうる。また加えてシュレージエンはプロテスタントの多い土地であった。 そして、当時のオーストリアの軍隊は、(1735年 - 1739年)で疲弊して戦力を大幅に低下させているだけでなく、その大半が依然としてハンガリーに駐留したままだったのである。シュレージエンの防衛兵力は乏しく、プロイセンの戦力をもってすれば制圧は容易であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シュレージエン戦争」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Silesian Wars 」があります。 スポンサード リンク
|