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シントラ宮殿 : ミニ英和和英辞書
シントラ宮殿[しんとらきゅうでん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

宮殿 : [きゅうでん]
 【名詞】 1. palace 
殿 : [どの, との]
 【名詞】 1. (pol) person 2. Mister (mostly in addressing someone on an envelope) 3. Mr 

シントラ宮殿 : ウィキペディア日本語版
シントラ宮殿[しんとらきゅうでん]

シントラ国立宮殿Palácio Nacional de Sintra)は、ポルトガルシントラにある宮殿。少なくとも15世紀初頭から19世紀後半にかけポルトガル王家が住み続けており、ポルトガル国内で最も保存状態の良い中世の王宮である。シントラの文化的景観の一部として、ユネスコ世界遺産に登録されている。
==歴史==

===中世===
シントラ宮殿の歴史は、イスラム教徒イベリア半島を支配していた時代から始まる。その頃シントラには2つの城があった。一つはシントラをのぞむ丘の上に立つ城で、カステロ・ドス・モウロス(Castelo dos Mouros,ムーア人の城、という意味)と呼ばれていた。この城は現在廃墟となっている。もう一つは、下り坂に位置し、シントラ地方を治めるムーア人支配者の住居となっていた。12世紀、シントラの村はポルトゥカーレ伯アフォンソ・エンリケス(のちのポルトガル王アフォンソ1世)によって征服され、彼はムーア人の住居を我が物とした。ゴシック様式マヌエル様式イスラム風建築が現在の城で混在しているが、これは15世紀から16世紀初頭にかけての建築の結果である。
かつてのムーア人支配者の宮殿と、初期のポルトガル王が住んだ宮殿はどちらも遺っていない。14世紀初頭のディニス1世治下で建てられた王室礼拝堂が遺るのみである。城の大部分は、1415年頃から始まったジョアン1世が後援した建設計画で建てられた。

中央中庭のほとんどの建物(アラ・ジョアニーナ、ジョアン翼)はこの計画で建てられた。ファサードの建物、マヌエル様式の中方立て窓、アジメゼスというイスラム建築、厨房の円錐形煙突、そして多くの部屋も計画に含まれた。
*白鳥の間 - ''Sala dos Cisnes''  マヌエル様式。天井に描かれた白鳥の絵にちなむ。 
*鵲の間 - ''Sala das Pegas''  天井に描かれたの絵にちなむ。鵲のくちばしには''pot bem''(善意で、という意味)と書かれた紅バラがくわえられている。これには逸話があり、ある時、ジョアン1世は女官にキスしているところを王妃フィリパ・デ・レンカストレに見つけられた。王は『善意でキスしたのだ。』と弁解し、フィリパは何も言わなかったが、噂が女官たちの間で広まってしまった。王は、「おしゃべり」という意味のある鳥である鵲を部屋の装飾に用い、かつまたフィリパの実家ランカスター家紋章である紅バラを描かせた。
*アラビアの間 - ''Sala dos Árabes''
ジョアン1世の長子ドゥアルテ1世は、この宮殿を非常に好み、長く滞在した。彼は、建物の使い方や、進化を了解するのに非常に価値のある記述を残している。この宮殿を好んだ証拠として他に、ドゥアルテ1世の嫡子アフォンソ5世はシントラで1432年に生まれ1481年にシントラで死んでいる。アフォンソ5世の子ジョアン2世 は、シントラ宮殿でポルトガル王即位を宣言した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「シントラ宮殿」の詳細全文を読む




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