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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジェイミー・ミューア(Jamie Muir)は、イギリス、スコットランドはエジンバラ出身の画家。元ミュージシャン。 ==概略== ジェイミー・ミューアはスコットランドのエジンバラにて生まれる。生年非公開。 1960年代前半にエジンバラ芸術大学在籍中、当初はピアノを学び、別の学校ではフレンチホルンも勉強した。 ジャズに興味を持って以降はトロンボーンと打楽器演奏をはじめ、トロンボーンを諦めると次にドラムスを始め、 ドラム練習では当初ケニー・クラークやトニー・ウィリアムス等のジャズスタイルをコピーし練習した。 アルバート・アイラー、ファラオ・サンダースに興味を持ち始めるとミルフォード・グレイブスの演奏に惹かれ打楽器の即興を志向。 地元バンドのアサシネイション・アテンプトにトロンボーンで参加、フリー・ジャズを演奏し始めた。 1965年エジンバラ芸術大学でのエジンバラフェスティバルにロンドンからミュージシャンが演奏に訪れ、ミューアはバックで演奏。 バーニー·グリーンの演奏でミューアは客演ギタリストのデレク・ベイリーと共演し、彼からロンドンへ出てくるように勧められた。 ロンドンへ出たミューアは、一週間振付師・舞踏家リンゼイ・ケンプの公演にデレク・ベイリー(Derek Baily)、エヴァン・パーカーらと参加。 またロンドンではピート・ブラウン&ピブロクトにパーカッションとドラムスとして加入、フリーなバンド演奏スタイルで1968年7月まで在籍。 1968年、ミュージック・インプロヴァイゼイション・カンパニー(MIC)を結成。ミューアは1971年まで関与している。 1969年7月、ハイドパークでのフリーコンサート、ブライアン・ジョーンズ追悼公演でキング・クリムゾンを観客として目撃した。 ピート・ブラウン・バタード・オーナメンツのエジンバラ・フェスティバルでの演奏にも参加。 元コロシアムのギタリストのジム・ローチェとサキソフォン奏者ドン・ウェラーとベース奏者ジェイミー・ピータースのバンド、ボリスに誘われ加入〔米映画会社の呼びかけでデモテープも作ったが、映画会社の倒産で頓挫した。『MARQEE別冊キング・クリムゾン』(1995年)〕。過激で暴力的なパフォーマンスを見せた。 1971年、ミュージック・インプロヴァイゼイション・カンパニー(MIC)を離れ、ヘヴィ・アフリカン・エンヴェロープを率いてコンサート活動を開始。 1972年、当時関わっていたアサガイで知り合ったアラン・ゴウエンらとサンシップ(Sunship)というグループを結成する。 この年4月キング・クリムゾンが空中分解し新しくメンバーを探していたロバート・フリップにメロディメーカー誌リチャード・ウィリアムスがミューアを紹介。 フリップらとのジャム・セッションの後にキング・クリムゾンへ加入。新ラインナップでライブを繰り返した後にアルバム太陽と戦慄を制作。 クリムゾン在籍当時、チベット仏教の『ヨギの自伝』に深い影響を受け、クリムゾンのマネージメントEGに脱退を申し入れた。 その後、1980年頃までミューアはスコットランドやフランス、インド等で仏教修行に入った。 帰国後、友人からまた音楽をやろうと誘われ活動を再開。デレク・ベイリー、エヴァン・パーカー等といくつかの作品を残している。 1983年にはデヴィッド・カニンガムの呼びかけで映画音楽制作にマイケル・ジャイルズらと参加(CDでの発売は1995年)。 1980年代末にはシーケンサーや一部楽器以外の機材を渡米の為に売り払ってしまった。 元々デレク・ベイリーやカンパニー作品でアルバムアートを手掛けていたのもあったが、この頃画家に転身している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイミー・ミューア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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