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ジェイムズ5世 ( リダイレクト:ジェームズ5世 (スコットランド王) ) : ウィキペディア日本語版 | ジェームズ5世 (スコットランド王)[じぇーむず5せい]
ジェームズ5世(James V, 1512年4月10日 - 1542年12月14日)は、スコットランド王(在位:1513年 - 1542年)。ジェームズ4世とイングランド王ヘンリー7世の娘(ヘンリー8世の姉)マーガレット・テューダーの子。 父ジェームズ4世のフロドゥンの戦い(Battle of Flodden Field)での死により、生後1年5ヶ月でスターリング城にて即位した。幼年期には母、次いでジェームズ2世の孫(ジェームズ5世の従叔父)にあたり王位継承権第2位のオールバニ公ジョン・ステュアート(John Stewart, Duke of Albany)が摂政を務めた。1525年に義理の父親(母マーガレットの2度目の夫)アンガス伯アーチボルド・ダグラス(Archibald Douglas, 6th Earl of Angus)が後見人となったが、実際にはジェームズ5世は軟禁状態に置かれた。「「1528年]]にこれを逃れ、親政を開始した。 ジェームズ5世はフランスとの古い同盟(Auld Allianc)を更新し、1537年1月1日にフランス国王フランソワ1世の王女マデリン(マドレーヌ)とパリのノートルダム寺院にて結婚する。しかしマデリンは、結婚後数ヶ月後にホリールード宮殿で結核で病没した。 1538年6月、フランスの大貴族である初代ギーズ公クロードの長女メアリー(マリー)とセント・アンドルーズで結婚する。2人の間には長男ジェームズ、次男アーサーが生まれるが、2人とも1歳を待たずして1541年4月に夭折した。 1541年にイングランド出身の母が死去すると、もはや和平を保つべき理由も薄れ、ついにイングランドの戦争が勃発した。ローマ・カトリック教会から離脱したヘンリー8世は甥のジェームズ5世にもカトリックからの離脱を強要したが、ジェームズ5世は教会の改革をひどく嫌った。1542年11月、国境近くのソルウェイ湿原の戦い(Battle of Solway Moss)で敗北し、フォークランド宮殿へ帰ったジェームズ5世はそのまま倒れた。12月8日、王妃メアリーが女子(女王メアリー1世として王位を継承)を出産した知らせを聞くが、回復することなく6日後の14日に死去した。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェームズ5世 (スコットランド王)」の詳細全文を読む
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