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ジェイムズ・オーティス : ミニ英和和英辞書
ジェイムズ・オーティス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェイムズ・オーティス : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・オーティス[ちょうおん]

ジェイムズ・オーティス(James Otis, 1725年2月5日 - 1783年5月23日)は、マサチューセッツ湾直轄植民地法律家、政治活動家。アメリカの植民地時代末期に当局による強制捜査のあり方を批判して植民地の権利を主張、その論旨は後の独立革命の理念の背景の一つとなった。通例、「代表なき課税は暴政である」というフレーズを初めて使ったとされる〔ただしオーティスがこのフレーズがいつどこで使ったかは特定されていない。〕。
同じく法曹畑の政治活動家である父親と同名であり、その混同を避けるため、当時の史料を含む多くの文献で、本稿の主題である息子に言及するときは「ジェイムズ・オーティス・ジュニア (James Otis, Jr.) 」、父親のほうに言及するときは「ジェイムズ・オーティス・シニア (James Otis, Sr.) 」、または民兵軍での階級(「大佐」)が添えられている。本稿では父親について述べる場合にのみ「父ジェイムズ」として明示する。
== 生い立ちと家族、初期の経歴 ==
ジェイムズ・オーティスはマサチューセッツバーンスタブルで生まれ、父ジェイムズとその妻メアリーがもうけた13人兄弟姉妹の長子として成長した〔Tudor, ''Life of James Otis'', p. 7.〕。
父ジェイムズはマサチューセッツの有力者の一人として、司法長官、民訴裁判所判事、遺言検認判事、代表議会議長、民兵軍大佐などを歴任した〔Ridpath, ''Pre-revolutionist'', p. 12.〕。兄弟姉妹には、成人前に没したものもいれば、独立革命前後に公の活動を行ったものもいる。中でも、長妹マーシー・オーティス・ウォーレンは詩や戯曲などの著作活動を通じて独立革命を擁護し〔Ridpath, ''Pre-revolutionist'', pp. 13-14.〕、末弟サミュエル・アレン・オーティスは初代合衆国上院秘書官(在任1789年 - 1814年)を務めた〔Ridpath, ''Pre-revolutionist'', p. 14.〕。
ジェイムズ・オーティスは1739年から1743年にかけてハーバード大学に在籍し、卒業後しばらく文学を独習した後、1745年から弁護士ジェレマイア・グリッドリーに学び、1747年にプリマスで弁護士として独立、1750年からはボストンに活動の中心を移した〔Tudor, ''Life of James Otis'', pp. 7-14.〕。
1755年春、商家の娘ルース・カニンガム(1728年? - 1789年11月15日)と結婚、社会的な地歩を固めた。志操堅固な王党派だったルースは夫と政治的理念を共有することはなかったが、生涯を連れ添った。2人の間には3人の子供が生まれている。長男ジェイムズは独立戦争に志願兵として従軍し、18歳を前に命を落とした。長女エリザベスは、後年オーティスが精神を患った後にイギリスの士官と結婚し、イギリス本国へ去った。次女メアリーは大陸軍将軍ベンジャミン・リンカーンの子と結婚した〔Tudor, ''Life of James Otis'', pp. 19-21.〕。
1756年頃から治安判事、司法長官代行、海事法務官代行などの任命を受ける一方、1760年にはラテン語に関する著作『ラテン語詩形論の基礎』〔原題: ''The Rudiments of Latin Prosody''.〕を出版している。さらにギリシア語についても同様の草稿を書いたが、しかしギリシア文字活字の都合がつかず、未発表となったとされる。この草稿は失われてしまっている〔Tudor, ''Life of James Otis'', pp. 15-16.〕。総じて、この時期のオーティスは、文学を愛好する優秀な若手法曹以上の存在ではなく、政治的な物事への関心は薄かった〔Smith, ''Writs of Assistance Case'', pp. 313-314.〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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