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ジェイムズ・ケアード号の航海 : ミニ英和和英辞書
ジェイムズ・ケアード号の航海[じぇいむずけあーどごうのこうかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [ごう]
  1. (n,n-suf) (1) number 2. issue 3. (2) sobriquet 4. pen-name 
航海 : [こうかい]
  1. (n,vs) sail 2. voyage 

ジェイムズ・ケアード号の航海 : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・ケアード号の航海[じぇいむずけあーどごうのこうかい]

ジェイムズ・ケアード号の航海()は、アーネスト・シャクルトンが率いた帝国南極横断探検隊の中で、1916年に南極サウスシェトランド諸島にあるエレファント島から、南大西洋サウスジョージア島まで、約800海里 (1,500 km) を小さなボートで渡ったものである。探検隊は遠征に使った''エンデュアランス号''が氷に潰された後で、エレファント島にわたり、その中から6人が救援を求めるために改造した救命ボートで出発した。極圏歴史家達は、それまで行われた中でもこの航海は小さなボートでの最大級の航海になったと評した。
1915年10月に''エンデュアランス号''がウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。
3隻あった救命ボートの中で、''ジェイムズ・ケアード号''が最強と考えられ、その旅に耐えられそうだと判断した。その船名はダンディジュート製造者かつ慈善事業家であり、その資金でこの遠征を可能にしていたジェイムズ・キー・ケアード卿から採られた。遠征に出る前に、船大工のハリー・マクニッシュが、南極海の荒い海にも耐えられるよう、そのボートを強化し改良していた。エレファント島を出た後は、転覆しそうになるなど多くの危険を乗り越えて、ボートは16日間の航海後にサウスジョージア島南岸にたどり着いた。シャクルトンと2人の隊員が島内陸の山岳を越えて、北岸の捕鯨基地に到着した。ここでエレファント島に残った隊員の救援隊を組織することができ、一人の生命も失うことなく救援に成功した。第一次世界大戦後、''ジェイムズ・ケアード号''はサウスジョージア島からイングランドに戻され、現在はシャクルトンの母校であるダリッジ・カレッジで永久展示されている。
== 背景 ==

1914年12月5日、シャクルトンの遠征船''エンデュアランス''がサウスジョージア島を発ってウェッデル海に向かった。これは帝国南極横断探検隊の第一段階だった。まずウェッデル海で探検されている中では最も南の南緯77度49分にあるバシェル湾に向かい、そこで陸上部隊が上陸して南極横断探検に備えることになっていた。しかしその目標地点に達する前に、船は叢氷に捉えられ、脱出の試みが長く行われたものの、1915年2月14日にしっかりと氷で周りを固められてしまった。その後の8か月間、船は北向きに漂流し、10月27日に氷の圧力で潰され、最後は11月21日に沈んだ。
シャクルトンと27名いた隊員は浮氷の上で宿営を始めた中で、シャクルトンの考えは如何にすればその隊員をうまく救うかに変わっていた。最初の計画は氷上を歩いて最も近い陸地に移動することであり、他の船が通ることがあると分かっている地点に達することだった。その移動を始めたが、氷表面の性状などによって進行が妨げられた。シャクルトンは後に「柔らかく、良く割れ、開口部が浮氷をあらゆる角度に割っていく」と表現していた。前進するために数日間苦闘した後で、行軍を中止した。隊は平らな浮氷の上で「忍耐のキャンプ」を構築し、さらに北に漂流して開けた海に出ていくのを待った。隊員は''エンデュアランス''から3隻の救命ボートを持ってきており、シャクルトンはそれらに遠征の主要な出資者から''スタンコーム・ウィルズ''、''ダドリー・ドッカー''、''ジェイムズ・ケアード''と名付けていた。隊は1916年4月8日まで待ち、その時点から救命ボートで氷を割って進み始めた。荒海や危険な浮氷の間を7日間、帆とオールを使った危険な航海の後で、隊は4月15日に暫定的な退避場であるエレファント島に到着した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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