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ジェイムズ・ゲアリド(ギャラード、、1749年1月14日 - 1822年1月19日)は、アメリカ合衆国の農園主、バプテスト教会の牧師である。1796年から1804年まで第2代ケンタッキー州知事を2期務めた。 アメリカ独立戦争に従軍した後、当時のバージニア州西部、現在のケンタッキー州バーボン郡に移転した。ケンタッキーがバージニア州から分離することを確実にする州昇格のための会議10回のうち5回の代議委員に選ばれ、また初代の州憲法起草に貢献した。憲法から奴隷制度継続の保証を外そうとした代議員の中に入っていたが、成功はしなかった。1795年、初代州知事アイザック・シェルビーの後を継ごうと考えた。3人が争った選挙では、ベンジャミン・ローガンが選挙人票の1位票を獲得したが過半数には届かなかった。州憲法では多数か過半数かを規定していなかったが、選挙人は上位2人、すなわちローガンとゲアリドで決選投票を行い、ゲアリドが過半数を獲得した。ローガンはゲアリドの当選について、州検事総長ジョン・ブレッキンリッジと州上院に抗議したが、どちらも干渉するための憲法上の権限を持っていないとして取り上げなかった。 民主共和党員であるゲアリドは、外国人・治安諸法に反対し、ケンタッキー決議の採択に賛成した。公共教育、民兵と刑務所の改革、事業助成金、さらに州内の大きな借金を負った階級に有利な法について成案を図った。1798年初代州知事公舎が建設され、ゲアリドが最初の住人になった。1795年の選挙から生じた混乱があったので、1799年に憲法改定会議を招集することに賛成した。反奴隷制度という見解を持っていたために、この会議の代議員には選ばれなかった。その結果生まれた2代目憲法では、州知事が住民の投票で選ばれることとなり、再選は認められないこととなったが、ゲアリド自身は例外とされ、1799年に再選された。2期目の任期中、ニューオーリンズ港でアメリカ製品を扱えなくなる事態への対策としてトーマス・ジェファーソンがフランスからルイジアナを購入すると、この決断を賞賛した。任期の終わり頃に、州務長官ハリー・トゥールミンがゲアリドを説得してユニタリアン主義の原理幾つかを採用させたので、バプテスト教会から追い出され、牧師を止めることになった。州土地管理局の登記官指名では州議会と衝突して辛い思いをしたので、任期満了後は政界に残る気力が無くなり、自分の荘園であるマウントレバノンに引退して農業と商業に従事し、1822年1月19日に死んだ。最初の州知事任期に設立されたケンタッキー州ゲアリド郡は、ゲアリドの栄誉を称えるものである。 == 初期の経歴と一族 == ジェイムズ・ゲアリドは1749年1月15日に、バージニア植民地スタフォード郡で生まれた〔Harrison in ''The Kentucky Encyclopedia'', p. 363〕。父はウィリアム・ゲアリド大佐、母はメアリー(旧姓ノーティ)であり、その3人の子供の2番目だった〔Des Cognets, p. 6〕 ゲアリドの母は1755年から1760年の間のいずれかの時点で死んだ。その後父はエリザベス・モスと再婚し、さらに4人の子をもうけた〔。父のウィリアムはスタフォード郡の副郡長であり、その徳によって大佐となり、郡の民兵隊を指揮していた〔。ゲアリド家はそこそこ裕福で、スタフォード郡庁舎もその土地に建てられた〔Billings and Blee, p. 58〕。ジェイムズは子供の時に父の農園で働いた〔Everman in ''Kentucky's Governors'', p. 7〕。スタフォード郡の公立学校で教育を受け、また家でも学んだので本好きになった〔。若い時期からフレデリックスバーグに近いハートウッド・バプテスト教会に関わっていた〔Des Cognets, p. 9〕。 1769年12月20日、子供の頃から好意を抱いていたエリザベス・マウントジョイと結婚した〔〔Johnson, p. 721〕。それから間もなく、妹のメアリー・アンがマウントジョイの兄ジョン・マウントジョイ大佐と結婚した〔Everman in ''Governor James Garrard'', p. 1〕。ゲアリドと妻には息子が5人、娘が7人生まれたが〔Des Cognets, p. 15〕、息子1人と娘2人は2歳になる前に死んだ〔。成長した4人の息子は全員が米英戦争に参戦し、いずれもケンタッキー州議会議員となった〔Des Cognets, p. 14〕。その多くの孫が南北戦争に参戦しており、北軍のケナー・ゲアリドとセオフィラス・T・ゲアリド各将軍がいた〔Des Cognets, pp. 31, 62〕。別の孫であるジェイムズ・H・ゲアリドは、1857年からその死の1865年まで5期続けて州財務官に選ばれ続けた〔Des Cognets, pp. 61–62〕。 アメリカ独立戦争のとき、ゲアリドは父のスタフォード郡民兵隊の一員として従軍したが、どのくらい戦闘に関わったかは明らかでない〔〔"James Garrard". ''Dictionary of American Biography''〕。ポトマック川でスクーナーに乗っているときに、イギリス軍に捕まえられた〔。ゲアリドは軍事情報の提供と引き替えに釈放を提案されたがこれを拒み、その後逃亡した〔Everman in ''Governor James Garrard'', p. 2〕。 民兵隊に従軍していた1779年、スタフォード郡を代表してバージニア議会議員に選出され〔、1779年の会期で就任した〔。この会期ではバージニアの全住民に信教の自由を認める法案推進に貢献した。この法の成立により、イングランド国教会信徒による他の宗派信徒に対する迫害を終わらせ、バージニアの国教としてイングランド国教会を定めようという動きに反撃した〔Johnson, p. 720〕。この会期の後は軍務に戻った〔。1781年、大佐に昇進した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイムズ・ゲアリド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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