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ジェイムズ・ロングエーカー : ミニ英和和英辞書
ジェイムズ・ロングエーカー[かー]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロング : [ろんぐ]
  1. (adj,n) long 2. (adj,n) long
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car

ジェイムズ・ロングエーカー : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・ロングエーカー[かー]

ジェイムズ・バートン・ロングエーカー(、1794年8月11日 - 1869年1月1日)は、アメリカ合衆国の肖像画家、彫刻師であり、1844年からその死の時までアメリカ合衆国造幣局の第4代彫師主任だった。1859年に流通し始めたインディアンの顔・1セント貨をデザインしたことで良く知られており、他にも19世紀半ばに流通した盾文様ニッケル・5セント貨や、飛ぶ鷲文様・1セント貨などのデザインを担当した。
ロングエーカーは1794年にペンシルベニア州デラウェア郡で生まれた。12歳の時にフィラデルフィアに出て行き、本屋の徒弟になった。その芸術的才能が開花し、版画の会社で徒弟から解放された。1819年には自分の会社を設立し、人気のある伝記本にイラストを提供することでその名を挙げた。当時の指導者の肖像画を描いた。サウスカロライナ州選出アメリカ合衆国上院議員ジョン・カルフーンなど指導者からの支持を得て、1844年にクリスチャン・ゴブレヒトが死去した後に、アメリカ合衆国造幣局彫師主任の指名を得ることになった。
彫師主任としての初期には、フィラデルフィア造幣所は支配人のロバート・M・パターソンと貨幣鋳造主任フランクリン・ピールが支配していた。連邦議会が新しい1ドル金貨とダブルイーグル金貨の発行を命じ、どちらもロングエーカーがデザインした後で、ロングエーカーとこの二人の諍いが発展した。ピールとパターソンはロングエーカーを解雇する寸前までいったが、ロングエーカーは財務長官ウィリアム・メレディスを説得してその地位に留まることができた。パターソンもピールも1850年代初期に造幣局を去り、抗争が終わった。
1856年、ロングエーカーは飛ぶ鷲文様・1セント貨をデザインした。このデザインでは鋳造が難しいことが分かると、ロングエーカーは代案を用意しなければならなかった。それがインディアンの顔・1セント貨であり、1859年に流通を始めた。ロングエーカーがデザインしたその他の貨幣としては、銀ニッケル・3セント貨、盾文様ニッケル・5セント貨、同じく盾文様・2セント貨があった。1866年から1867年、ロングエーカーはチリの貨幣をデザインし直した。ロングエーカーは1869年の元日に急死した。その後任はウィリアム・バーバーとなった。ロングエーカーの貨幣は概して今日の評価が良いが、芸術的な進歩が無いと批判されてきた。
== 初期の経歴; 民間企業における経歴 ==

ジェイムズ・バートン・ロングエーカーは1794年8月11日に、ペンシルベニア州デラウェア郡の農園で生まれた。母のサラ(旧姓バートン)はロングエーカーが幼い時に死んだ。父のピーター・ロングエ^カーは、スウェーデンから北アメリカに渡って来た初期移民の子孫だった。父が再婚したとき、ロングエーカーは生家での生活が耐えられないものに感じ、12歳で家を離れて、近くのフィラデルフィア市で職を求めた。書店で徒弟に入った。その店主ジョン・E・ワトソンは少年のロングエーカーを自分の家族と共に住まわせた。その後の数年間、ロングエーカーは書店で働いていたが、ワトソンはこの少年が肖像画の技法に優れていると認識した。ワトソンは1813年にロングエーカーを徒弟から解放して、芸術的才能を伸ばせるようにしたが、この二人は密接な関係を続け、ワトソンがロングエーカーの作品を売ることも多かった。
ロングエーカーはエングレービング版画の会社マレー・ドレーパー・フェアマン&Co.(フィラデルフィア市サンソム通り47)の社長ジョージ・マレーの徒弟となった。この事業はフィラデルフィア造幣所初代彫師主任だったロバート・スコットが設立した会社から派生したものだった。ロングエーカーは1819年までマレーの会社に留まっていた。そこでの主要な仕事は、ジョージ・ワシントントーマス・ジェファーソンジョン・ハンコックの肖像画を描いたことであり、出版者のジョン・ビニスによってアメリカ独立宣言の複製に使われた。ビニスはその作品に9,000ドルを払うことになった(2014年換算で138,659ドル)。 1816年からマレーの会社に雇われていた者に、ロングエーカーの前任の彫師主任となるクリスチャン・ゴブレヒトがいた。この会社でのロングエーカーの作品は、他の芸術家の絵画を版画に模造する彫師としての評判を高め、1819年には、フィラデルフィア市パイン通り230に自分の会社を設立した。
ロングエーカーの最初の重要な注文は1820年にS・F・ブラッドフォードの「百科事典」のための版画だった。ロングエーカーが制作したアンドリュー・ジャクソン将軍の版画はトマス・サリーが描いた肖像画を元にしており、幅広く売れた。続いてジョセフ・サンダーソンとジョン・サンダーソンの『アメリカ独立宣言署名者の伝記』のために挿絵の版画を制作することで合意し、1820年から1827年に9巻本で出版された。この事業は書き方の批判を受けたものの、販売は順調であり、プロジェクトは完成した。貨幣学の著作家リチャード・スノーは、この本がロングエーカーのイラストの質という力で売れたと主張していた。ロングエーカーは1826年の『アメリカの劇場』で引き受けた挿絵のために一連の役者の研究も完成させた。
サンダーソンのシリーズから学んだ教訓をもとに、ロングエーカーは独自の伝記集を主題に応じた版画でイラストを入れて作成する提案を行った。このプロジェクトに取り掛かることにして、自分の金1,000ドル(2014年換算で23,623ドル)を投資して準備しているときに、ニューヨーク市のジェイムズ・ヘリングが似たようなシリーズを計画していることを知った。1831年10月、ロングエーカーがヘリングに手紙を書き、二人は『アメリカの肖像画ギャラリー』を共同で製作することに合意した(後に『傑出したアメリカ人の全国肖像画ギャラリー』と呼ばれた)。これは1834年から1839年に4巻本で出版された。ヘリングは画家だったが、イラスト作品の多くはロングエーカーが制作した。このためにロングエーカーは国内を広く旅して回り、実物からスケッチを作成した。このときは大統領になっていたジャクソンのスケッチも再度作成し、元大統領のジェームズ・マディソンのイラストも、どちらも1833年7月に作成した。ロングエーカーは当時の政治指導者の多くに会っており、彼らはロングエーカーのイラストに感銘を受けていた。そのような指導者の中に元副大統領でサウスカロライナ州選出アメリカ合衆国上院議員のジョン・カルフーンがいた。1832年7月、「ナイルズ・レジスター」がロングエーカーの版画を、「アメリカの芸術の進歩における素晴らしい標本の1つ」と表現した。
ロングエーカーは1827年にエリザ・スタイルズと結婚した。娘のサラが生まれた1828年から1840年の間に、3人の息子と2人の娘が生まれた。『ギャラリー』の売り上げは1837年恐慌のために落ち込んだ。ロングエーカーは破産の宣言を強いられ、南部から中西部を回って町から町にその本を売り歩いた。妻と長女が自宅で発送と経理を受け持った。1837年後半、フィラデルフィアに戻り、共同経営者とともに紙幣の製版会社トッパン・ドレイパー・ロングエーカー&Co.を開くことができた。州認定銀行が発行する紙幣のための版制作は需要が大きく、会社は繁盛し、フィラデルフィア市ウォルナット通り60に事務所を構え、支店をニューヨーク市ウォール街1にも出した。スノーに拠れば、ロングエーカーは国内でも最良の彫師だと知られていた。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェイムズ・ロングエーカー」の詳細全文を読む




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