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ジェイ・ヤングブラッド("The Renegade" Jay Youngblood、本名:Steven Nicolas Romero、1955年6月21日 - 1985年9月2日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。テキサス州アマリロ出身〔『THE WRESTLER BEST 1000』P273(1996年、日本スポーツ出版社)〕。 インディアン・ギミックのベビーフェイスとして活躍し、リッキー・スティムボートとのアイドル系タッグチームで大人気を博した。父親のリッキー・ロメロ、弟のマーク・ヤングブラッドとクリス・ヤングブラッドもプロレスラーである。 == 来歴 == デビュー当時は地元テキサスのアマリロ地区にてシルバー・ストリーク(''Silver Streak'')のリングネームで活動、1976年2月27日に父リッキー・ロメロとのコンビでNWAウエスタン・ステーツ・タッグ王座を獲得している。 その後、ジェイ・ヤングブラッド(''Jay Youngblood'')に改名し、オレゴンおよびワシントン州をサーキット・エリアとする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)にて活動。1977年10月には全日本プロレスに初来日、インディアン・レスラーの大御所ワフー・マクダニエルのパートナーを務めた。 1979年よりジム・クロケット・ジュニアの運営するノースカロライナのNWAミッドアトランティック地区に進出し、リッキー・スティムボートとタッグを結成。同年10月24日、ポール・ジョーンズ&バロン・フォン・ラシクを破り、ミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得した。以降、レイ・スティーブンス&グレッグ・バレンタイン、スティーブンス&ジミー・スヌーカなどのチームと抗争を展開し、同地区を代表する人気タッグチームとなる。1980年4月21日にはWWFにもゲスト出場し、ニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてトーア・カマタ&ブルドッグ・ブラワーから勝利を収めた。 1981年は単身で古巣のPNWをサーキットし、NWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を巡りバディ・ローズと抗争。1982年5月にはスティムボートと共に全日本に再来日、6月1日に札幌中島スポーツセンターにて大仁田厚のNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座にも挑戦した。全日本には同年11月の世界最強タッグ決定リーグ戦にもスティムボートとのコンビで出場、開幕戦でのスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビとの対決は名勝負として語り草となった〔『16文が行く (新装版) 』P153(1999年、ダイナミックセラーズ出版、ISBN 488493279X)〕。 以降も本国ではNWAミッドアトランティック地区を主戦場にスティムボートと組んで活躍、1983年にはサージェント・スローター率いるコブラ・コープス(スローター、ドン・カヌードル&ジム・ネルソン)やブリスコ・ブラザーズ(ジャック・ブリスコ&ジェリー・ブリスコ)とNWA世界タッグ王座を争った〔。 1984年よりマーク・ヤングブラッドとのインディアン兄弟コンビでフロリダのCWF(チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ)に参戦し、翌1985年1月1日には、クラッシャー・クルスチェフ&ジム・ナイドハートからNWA USタッグ王座を奪取。その後も同王座を巡り、ココ・ウェアとノーベル・オースチンのプリティ・ヤング・シングス(PYTエクスプレス)と抗争した。 同年9月2日、遠征先のニュージーランドで心臓発作を起こし死去。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイ・ヤングブラッド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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