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ジェイ・レダ(Jay Leyda、1910年2月12日 デトロイト - 1988年2月15日〔David Stirk and Elena Pinto Simon in Ian Christie and Richard Taylor, ''Eisenstein Rediscovered'', Routledge, 1993, p41. ISBN 0415049504 〕 ニューヨーク) は、アメリカの写真家、実験映画の監督、映画史家。ニューヨーク近代美術館映画部門の創立者、ニューヨーク大学映画学科教授(1973年 - 1988年)。 == 来歴・人物 == *1910年2月12日、アメリカ・ミシガン州デトロイトに生まれる。 *1931年、21歳のときに、11分のサイレント短編映画『''A Bronx Morning''(ブロンクスの朝)』を発表。詩的ドキュメンタリーである。 *1935年に設立されたニューヨーク近代美術館映画部門(Museum of Modern Art Department of Film and Video)の創立者のひとりとなる。 *1937年、中篇ドキュメンタリー映画『''China Strikes Back''(中国の反撃)』をシドニー・メイヤーと共同監督。ヨリス・イヴェンス監督の『''The 400 Million''(四億)』(1939年)よりも2年早く毛沢東を世界に紹介した。 *1930年代初頭には、労働者映画写真連盟(Workers Film and Photo League)のメンバーであった。セルゲイ・エイゼンシュテインの失われたフィルム『''Bezhin Meadow''(ベジン高原)』(1935年 - 1937年)の撮影に参加していた〔1940年代にエイゼンシュテインの手記をレダが翻訳した。〕〔英語版WikipediaJay Leydaの記述より。〕。同作には助監督としてクレジットされている。 *史家としては、アメリカ映画、ソ連映画、中国映画が専門〔英語版WikipediaJay Leydaの記述より。〕。 *1973年、ニューヨーク大学映画学科教授に就任( - 1988年)。 *1984年、イーストマン・コダック金メダル賞(Eastman Kodak Gold Medal Award)を受賞〔英語版WikipediaJay Leydaの記述より。〕。 *1988年2月15日、ニューヨークにて死去。78歳。 *ジャン=リュック・ゴダールの映画『ゴダールの映画史』(1988年 - 1998年)には、「そうではないか、ジャン=ジョルジュ・オリオールよ…ジェイ・レダよ…ロッテ・アイスナーよ」と、『ラ・ルヴュ・デュ・シネマ』執筆者たちの名を呼びかけるシーンが存在する。〔蓮實重彦『ゴダールの「孤独」 - 『映画史』における「決算」の身振りをめぐって 』ユリイカ(青土社、2002年5月号「特集=ゴダールの世紀」)〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイ・レダ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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