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ジェニー・リンド : ミニ英和和英辞書
ジェニー・リンド[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェニー・リンド : ウィキペディア日本語版
ジェニー・リンド[ちょうおん]

ヨハンナ・マリア・リンドJohanna Maria Lind 1820年10月6日 - 1887年11月2日)は、スウェーデンオペラ歌手ジェニー・リンドとしてよく知られており、しばしば「スウェーデンのナイチンゲール」と称された。19世紀において最も注目を集めた歌手の一人であり、スウェーデンやヨーロッパ中でソプラノの役を演じていた。1840年からはスウェーデン王立音楽アカデミーの会員であった。彼女の極めて大きな人気を博したアメリカツアー(en)は1850年に始まった。
リンドは1838年の「魔弾の射手」のスウェーデン公演後に有名になった。数年のうちに声の障害に苦しむようになるが、歌唱の指導者だったマヌエル・グラツィア〔訳注:1805年生まれ、スペインの歌手、歌唱指導者、声楽学者(Vocal pedagogue)。パリ音楽院王立音楽アカデミーで教鞭を執った。(Manuel García)〕が彼女の声を救った。彼女は1840年代にはスウェーデンと北ヨーロッパ中で非常に多くのオペラの役を演じ、メンデルスゾーンの弟子になっている。ロンドンでの熱狂を巻き起こした2回のシーズンを最後に、29歳の彼女はオペラからの引退を表明する。
1850年、興行師P・T・バーナムの招きに応じてリンドは渡米する。彼女はバーナムの興行で93回の大規模な演奏会に出演し、その後は自らの運営でツアーを継続した。彼女はこれらの演奏会を通じて350,000ドル以上を手にしており、それを慈善事業の推進、主にスウェーデンのフリースクールの基金へと寄付した。彼女は1852年に新しく夫となったオットー・ゴルトシュミットと共にヨーロッパへ戻り、1855年にイングランドに住まいを設けた。続く20年の間には3人の子どもを儲け、時おり演奏会を開いて過ごした。1882年からの数年、彼女はロンドンの王立音楽大学で声楽科の教授を務めた。
== 人生とキャリア ==

=== 幼少期 ===

リンドはストックホルム中心部のクララ地区〔訳注:クララ教会(Klara Church)にちなむ地区名。20世紀中頃に大規模な再開発を行い、450棟以上の建物、ほとんどの家屋が建て替えられた。(Klara)〕において、簿記職のニクラス・ジョナス・リンド(Niclas Jonas Lind 1798年 - 1858年)と教師のアンネ=マリー・フェルボルグ(Anne-Marie Fellborg 1793年 - 1856年)の間の婚外子として生まれた〔。リンドの母は一人目の夫の不倫により離婚していたが、宗教上の理由から1834年の彼の死まで再婚を拒んでいた。リンドの両親は彼女は14歳の時に結婚している〔。
リンドの母は家の外で全日制の女子校を経営していた。リンドが9歳の時、彼女の歌声がスウェーデン王立歌劇場で筆頭の舞踏家であったルンドベルグ婦人(Lundberg)のメイドの耳に入る〔。そのメイドはリンドの素晴らしい声に驚き、翌日ルンドベルグ婦人を伴って再び現れた。婦人はオーディションを設けてリンドが王立劇場〔訳注:1788年設立、ストックホルムの劇場。歌劇ではなく一般の演劇を扱う。1908年からはニブロプラン(Nybroplan)のアール・ヌーヴォーの新劇場になっている。(Royal Dramatic Theatre)〕の演劇学校〔訳注:1787年グスタフ3世が創設。スウェーデンの舞台俳優にとって最も重要な演劇学校であった。(Dramatens elevskola)〕に入れるよう便宜を図った。演劇学校では、劇場の歌唱指導者であったカール・マグヌス・クレリウス(Karl Magnus Craelius)がリンドの指導に当たった〔Mdlle. Jenny Lind, ''The Illustrated London News'', 24 April 1847, p. 272〕。
リンドは10歳の時に舞台で歌うようになる。彼女は12歳の頃、声の危機に直面してしばらく歌唱を止めなくてはならなかったが、そこから回復した〔。彼女が演じた最初の大役は1838年のスウェーデン王立歌劇場でのウェーバーの「魔弾の射手」の公演におけるアガーテ役だった〔。彼女は20歳でスウェーデン王立音楽アカデミーの会員となり、スウェーデンとノルウェイの王の宮廷歌手〔訳注:スウェーデンの歌唱芸術の地位向上に貢献した歌手に贈られる称号。グスタフ3世が命名した。(Hovsångare)〕となった。彼女の声は歌いすぎと正しくない歌唱法のために深刻な障害を負い始めていたが、1841年から1843年の間にパリでマヌエル・グラツィア〔の下で学んだことによって難を逃れることができた。彼女の声はあまりに傷ついていたため、グラツィアは彼女に3ヶ月間一切歌わないように言い渡し、それによって彼女の声帯は回復することができた。その後、グラツィアは彼女に喉を痛めない歌唱法の指導を開始した〔〔。
リンドがグラツィアの下で学ぶようになって1年経った頃、彼女の才能を早くから熱心に賞賛していたマイアベーアが、彼女のためにパリオペラ座の試験を受けられるように取り計らったが彼女は落ちてしまう。伝記作家のフランシス・ロジャース(Francis Rogers)はリンドがその落選にひどく憤慨していたと結論している。なぜなら、彼女は国際的スターとなってからも、パリのオペラ座からの招待は全て拒否していたからである〔。ストックホルムの歌劇場に戻った彼女は、グラツィアの指導の甲斐あって歌手として著しく成長していた。1843年に彼女はデンマークへと演奏旅行に出たが、そこで彼女を目にしたアンデルセンは恋に落ちる。2人はよき友人となったものの、アンデルセンの恋は片想いに終わっている。彼女は彼の3つの童話に霊感を与えたと考えられている。「柱の下 ''Beneath the Pillar''」、「天使 ''The Angel''」と「小夜啼鳥 ''The Nightingale''」である〔Hetsch, Gustav and Theodore Baker. "Hans Christian Andersen's Interest in Music", ''The Musical Quarterly'', Vol. 16, No. 3 (July 1930), pp. 322–329 〕。彼はこう記している。「詩人としての私にいかなる本、人物よりも高貴な影響を与えてくれる人、それがジェニー・リンドだ。彼女は私を芸術の聖域にいざなってくれるのだ〔。」伝記作家のカロル・ローゼン(Carol Rosen)は、アンデルセンはリンドに求婚を断られたことで、「雪の女王」に氷の心を持つ人物として彼女を描写したのだと信じている〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェニー・リンド」の詳細全文を読む




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