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ジェフ・タランゴ(Jeff Tarango, 1968年11月20日 - )は、アメリカ・カリフォルニア州マンハッタンビーチ出身の元男子プロテニス選手。フルネームは ''Jeffrey Gail Tarango'' (ジェフリー・ゲイル・タランゴ)という。1999年の全仏オープン男子ダブルスで、ゴラン・イワニセビッチ(クロアチア)と組んで準優勝した選手である。同じ1999年のジャパン・オープン男子ダブルスで、ダニエル・バチェク(チェコ)と組んだ優勝もある。左利き。自己最高ランキングはシングルス42位、ダブルス10位。ATPツアーでシングルス2勝、ダブルスで1999年ジャパン・オープンを含む14勝を挙げた。 タランゴはスタンフォード大学の学生テニス選手として活動した後、1989年からプロテニス選手になった。同年の全米オープンでアンドレイ・チェスノコフ(当時ソ連)との3回戦に初進出する。1992年に男子ツアーでシングルス2勝を挙げたが、それ以後はシングルスのタイトルを獲得できずに終わってしまう。1995年のウィンブルドン3回戦で、ジェフ・タランゴはアレクサンダー・ムロンツ(ドイツ)との対戦中に審判への暴言を繰り返したため、第2セットの途中(タランゴ側からのゲームカウント:6-7, 1-3)で主審から「失格」を言い渡された。テニスの試合中の暴言による失格問題は(5年前の1990年全豪オープン4回戦で失格になったジョン・マッケンローなど)過去に若干の前例があったものの、タランゴは「テニスの聖地・ウィンブルドンで」選手権史上初の試合中失格処分を受けたことで大きな話題を呼んだ。その後は1997年の全豪オープンと全米オープンで3回戦進出があるが、彼はキャリアを通じて4大大会の男子シングルスでは4回戦以上に勝ち残れなかった。 ウィンブルドンでトラブルを起こした1995年、その直前の4月に韓国・ソウル大会でセバスチャン・ラルー(カナダ)とペアを組み、男子ツアーでダブルス初優勝を果たす。この年にダブルス3勝を獲得してから、タランゴはダブルスの分野で成績を伸ばしていく。彼のテニス経歴は1999年にハイライトを迎え、この年にダブルスで年間6大会に優勝し、全仏オープン男子ダブルスで準優勝した。パートナーも多様な選手たちと組み、ジャパン・オープンを含む3大会でダニエル・バチェク(チェコ)、2つはデビッド・アダムズ(南アフリカ)、1つはオリビエ・ドレートル(フランス)と組んだ。全仏オープン男子ダブルスで組んだゴラン・イワニセビッチとは、初めての組み合わせで決勝に進出した。ともに左利きの2人は、決勝で第1シードのマヘシュ・ブパシ&リーンダー・パエス(ともにインドのペア)に 2-6, 5-7 のストレートで敗れ、初優勝のチャンスを逃した。 ジャパン・オープンは1999年まで4月開催であったが、2000年から10月中旬開催に変更された。タランゴは再び男子ダブルスで来日し、マイケル・ヒル(オーストラリア)と組んで2年連続の決勝戦に進んだが、日本の決勝戦でブパシ&パエス組に 4-6, 7-6, 3-6 で敗れ、男子ダブルス2連覇を逃した。2000年はシドニー五輪にもアメリカ代表選手として出場し、シングルス2回戦でマリアノ・サバレタ(アルゼンチン)に敗れた。 2001年度は6大会でダブルス決勝に進出したものの、4月のハサン2世グランプリ(モロッコ・カサブランカ開催)で1勝したのみで、他の5大会は準優勝で止まった。この年はマイケル・ヒルとのペアで好成績が多く、ハサン2世グランプリで現役最後のダブルス優勝を飾り、全仏オープンの男子ダブルスで2年ぶり2度目の準決勝進出も記録している。ジェフ・タランゴは2003年全米オープンの男子ダブルス1回戦敗退を最後に、34歳で現役を引退した。 == 外部リンク == * 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェフ・タランゴ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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