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ジェム(、1459年12月〔前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』(講談社学術文庫, 講談社, 2002年3月)、397頁〕 - 1495年2月25日)は、オスマン帝国の帝位請求者。カラマンとコンヤの総督であった。 == 生涯 == === 前半生 === 父親は「征服者」メフメト2世。 メフメト2世は詩作の才能に長けていたジェムを、息子たちの中で最も愛していた〔鈴木『オスマン帝国 イスラム世界の「柔らかい専制」』、117頁〕。メフメト2世の存命中、その政策に同調的な勢力がジェムを支持し、政策に批判的な人間はスィヴァス、トカト、アマスィヤの総督であった皇太子の兄バヤズィトの周りに集まっていた〔クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、342頁〕。 1481年にメフメト2世が崩御すると、大宰相がバヤズィトとジェムに使者を送るも、ジェムの元に派遣された使者は道中でアナトリア副官のシナン・パシャに捕縛されたため〔クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、341頁〕、ジェムは父の訃報を兄よりも4日遅れで知らされることになる。バヤズィトを支持する一派の扇動のため〔、あるいはカラマニ・メフメト・パシャの財政政策と土地制度の改革によって被った損害に対する反感のため〔クロー『メフメト2世 トルコの征服王』、341-342頁〕に、1481年5月4日にイスタンブルのイェニチェリが蜂起し、カラマニ・メフメト・パシャを殺害した。バヤズィト2世の不在につき、その子皇子が摂政としてイスタンブルの秩序を回復した。 5月21日にバヤズィトがイスタンブルに上陸して、皇帝への即位を宣告する。それからわずか6日後に、ジェムが4,000人の兵士とともにイネギョルの町を占領した。バヤズィト2世は大宰相アヤス・パシャ配下の軍を送り込み、弟の殺害を命じるが、5月28日にジェムはバヤズィトの軍を敗走させた。ジェムは自分こそがアナトリアの君主であり、ブルサを首都に定めると宣言、バヤズィトにヨーロッパ側の領土を譲って二人で帝位を分かち合うことを提案した〔。烈火のごとく怒ったバヤズィトはその案を拒絶し、ブルサに進軍した。6月20日にイェニシェヒル近郊で両者は激突するが、この決戦はジェム軍の敗北に終わった。敗れたジェムは家族連れでマムルーク朝が支配するカイロに避難せざるを得なくなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェム・スルタン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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