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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ガイ・ミッチェル("Stomper" Guy Mitchell、本名:John Steele Hill、1941年7月8日 - 2010年3月11日)は、カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身のプロレスラー。 WWFにおけるバリアント・ブラザーズの一員、"ジェントルマン" ジェリー・バリアント("Gentleman" Jerry Valiant)としての活動でも知られる。 == 来歴 == トロント地区のプロモーターだったフランク・タニーにスカウトされ、1959年にガイ・ヒル(''Guy Hill'')のリングネームでデビュー。AWAなどで活動後、1961年にアメリカ合衆国南部のジョージア地区でガイ・ミッチェル(''Guy Mitchell'')に改名し、同年3月29日にスカル・マーフィーからNWA南部ヘビー級王座を奪取した。 その後、インディアナポリスのWWAでヒールの覆面レスラーに変身し、ジョー・トマッソとジ・アサシンズ(''The Assassins'')を結成。若手時代のボビー・ヒーナンをマネージャーに従え、1965年から1966年にかけてディック・ザ・ブルーザー&ウイルバー・スナイダーなどの強豪チームとWWA世界タッグ王座を争った。WWAではヒーナンの兄弟ギミックのガイ・ヒーナン(''Guy Heenan'')を名乗ったこともある〔。 また、1966年にはザ・デストロイヤー(''The Destroyer'')の名義でオーストラリア(ジム・バーネットが主宰していたワールド・チャンピオンシップ・レスリング)にも遠征。9月3日にベアキャット・ライトから豪州版のIWA世界ヘビー級王座を奪取し、同年にオーストラリアに招聘されたWWWF世界ヘビー級王者のブルーノ・サンマルチノとも対戦した。 1970年代に入るとデトロイト地区で素顔に戻り、ザ・ストンパー(''The Stomper'')のリングネームでベビーフェイスとして活動。ザ・シークやキラー・ブルックス、アル・コステロ&ドン・ケントのファビュラス・カンガルーズなどと抗争を繰り広げ、人気スターのボボ・ブラジルやベン・ジャスティスのパートナーとなって同地区認定のNWA世界タッグ王座も再三獲得した。 1971年12月末にはザ・ストンパー名義で日本プロレスに初来日し、翌1972年開幕の新春シリーズへ継続参戦。1973年1月の新春シリーズにも、レッド・デビル(''The Red Devil'')なるマスクマンとして再来日、シリーズ最終戦の1月30日に大阪府立体育館にて、ザ・スポイラーとの大型覆面コンビで大木金太郎&坂口征二のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。 1973年からはカナダのバンクーバー地区を主戦場に、再びヒールターンして覆面レスラーのミスターX(''Mr. X'')に変身。1974年4月1日にはフラッシュ・ゴードンことジョージ・ゴーディエンコからNWAパシフィック・コースト・ヘビー級王座を奪取した。以降もジン・キニスキーやマイク・シャープ・ジュニアらを破り、1977年まで同王座を通算4回獲得している。この間の1975年10月、新日本プロレスにミスターXとして来日。アントニオ猪木ともシングルマッチで2度対戦した。 また、素顔のガイ・ミッチェルまたは覆面レスラーの別名義マスクド・ストラングラー(''The Masked Strangler'')としても古巣のWWAに参戦しており、この時期はバンクーバーとインディアナポリスを股にかけて活動〔。WWAでは1976年5月1日、マスクド・ストラングラーとしてペッパー・ゴメスからWWA世界ヘビー級王座を奪取。以降、ウイルバー・スナイダー、ビル・ミラー、アート・トーマス、オックス・ベーカー、ボボ・ブラジルなどを挑戦者に、1977年3月5日にディック・ザ・ブルーザーに敗れるまで長期政権を築いた〔。 1978年末、肝炎を患っていたジミー・バリアントに代わるジョニー・バリアントの新パートナーとして、ジェリー・バリアント(''Jerry Valiant'')を名乗りWWFに登場。1979年3月6日、トニー・ガレア&ラリー・ズビスコを破りWWFタッグ王座を獲得、同年10月22日にイワン・プトスキー&ティト・サンタナに敗れるまで保持した。戴冠中の5月22日にはボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に挑戦し、8月27日にはニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンにてアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも組まれた。 WWF離脱後もバリアント・ブラザーズのギミックを使い続け、1980年2月にはラリー・バリアント(''Larry Valiant'')の名前でジョニーと共に全日本プロレスに来日、2月26日に人吉にてグレート小鹿&大熊元司の極道コンビが保持していたアジアタッグ王座に挑戦した。全日本プロレスには1981年1月にもガイ・ミッチェル名義で再来日しており、アブドーラ・ザ・ブッチャーやマーク・ルーインともタッグを組んだ。 その後はWWAでの盟友でもあったロジャー・カービーをパートナーに、メンフィスのCWAやカンザスシティのCSWで活動。1983年にWWAに戻り、1984年からは1986年にかけてはベテランのジョバーとしてWWFのハウス・ショーやTVテーピング番組に単発出場した(1984年7月10日にはWWF世界ヘビー級王者ハルク・ホーガンのジョバーを務めている)。引退後はインディアナポリス近郊に居住して造園業を営んでいた〔〔。 2010年3月11日、インディアナ州フランクリンにて癌のため死去〔〔。68歳没。晩年はサンタクロースに扮してボランティア活動にも取り組んでいた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ガイ・ミッチェル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 John Hill (wrestler) 」があります。 スポンサード リンク
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