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ジェルマン・レジェ・テストウィード(Germain Leger Testvuide、1849年10月2日 - 1891年8月4日)は、パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。1873年(明治6年)9月に来日し、西関東及び東海地方の宣教に従事したのち、1889年(明治22年)に神山復生病院を設立した。 == 生涯 == 1849年(嘉永2年)、フランスのオートマルヌ県ティヴェに生まれる。ラングルの神学校で学んだのち、1872年(明治5年)10月8日にパリ外国宣教会の運営する神学校に転校する。翌1873年(明治6年)6月7日に司祭に叙階され、同年7月2日に日本へ向けて出発し、同年12月に横浜に到着した。来日当初は横須賀海軍工廠に雇われていたフランス人技師の教会を司牧する。 1875年(明治8年)、東京近郊の武蔵野方面で宣教活動を行い、翌1876年(明治9年)北緯代牧区巡回宣教師となる。1880年(明治13年)西関東・東海道地方を担当し、その範囲は愛知・岐阜県に及んだ。1884年(明治17年)には静岡市鷹匠町に布教所を設立、ここを拠点に藤枝・浜松方面をも巡回し、翌1885年(明治18年)には沼津にも布教所を設立した。 この巡回伝道の旅行中、足柄街道筋の水車小屋で30歳ぐらいの盲目の女性ハンセン病患者と出会い、療養所の設立を決意する。1883年(明治16年)の春、御殿場の鮎沢村(現在の御殿場市新橋)に家屋を借用して6名の患者を収容する。薬はモロカイ島でハンセン病の患者を世話していた司祭のヨセフ・デ・ブーステルから調達した。またブーステルの紹介でハンセン病治療医の後藤昌直と知り合いとなり、新薬を分けてもらった。 1888年(明治21年)、静岡県駿東郡富士岡村字神山(現在の御殿場市)に土地を購入し、翌1889年(明治22年)5月に新たな診療所を設立し、患者20名を収容する。彼は上司に診療所の設立許可を願うにあたり「らい患者が現世の苦しみによって永遠の生命を得ることができたら苦しみも又幸せとなるでしょう。そのために病院を建て、そのことを教えたいと思います。こうして彼らは肉体の救いと共に魂のたすかりを得ると思います」と説明した。彼はこの診療所に「主における復活」の意味で『神山復生病院』と命名、これが日本最初のハンセン病療養所となった。1891年(明治24年)5月下旬、体調を崩し治療のため香港の宣教師診療所へ行くが、胃癌の宣告を受けた。その後、回復することなく1891年(明治24年)8月4日に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェルマン・レジェ・テストウィード」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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