翻訳と辞書
Words near each other
・ ジェームス・B・ランパート
・ ジェームス・C・ローズ
・ ジェームス・D・ポーター
・ ジェームス・E・ウィリアムズ (ミサイル駆逐艦)
・ ジェームス・E・ムーア
・ ジェームス・F・シェンク
・ ジェームス・F・ブリン
・ ジェームス・H・バラ
・ ジェームス・J・コーベット
・ ジェームス・J・ジェフェリース
ジェームス・J・ジェフリーズ
・ ジェームス・J・ブラドック
・ ジェームス・L・オア
・ ジェームス・L・オーア
・ ジェームス・M・ポーター
・ ジェームス・N・タイナー
・ ジェームス・T・カーク
・ ジェームス・W・グッド
・ ジェームス・W・ブラック
・ ジェームス・W・モーリー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ジェームス・J・ジェフリーズ : ミニ英和和英辞書
ジェームス・J・ジェフリーズ[じぇーむすじぇいじぇふりーず]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェームス・J・ジェフリーズ : ウィキペディア日本語版
ジェームス・J・ジェフリーズ[じぇーむすじぇいじぇふりーず]

ジェームス・J・ジェフリーズJames J. Jeffries、男性、1875年4月15日 - 1953年3月3日)は、アメリカ合衆国プロボクサー。本名はジェームス・ジャクソン・ジェフリーズJames Jackson Jeffries)。オハイオ州キャロル出身。元世界ヘビー級王者。

驚異的な身体能力の持ち主であり、100ヤード(91.44m)走で11秒、走り高跳びでは5フィート10インチ(177.8cm)を記録したとされる〔The Sweet Science"The Legend of James J. Jeffries ", ''The Sweet Science '',October 04, 2013〕。
== 来歴 ==
オハイオ州キャロルの農家に生まれ、6歳の時にカリフォルニア州ロサンゼルスに移住した〔70-72頁〕。少年時代からボイラー工場で働いていた(ニックネーム「ボイラーメイカー」の由来でもある)〔。恵まれた身体能力を生かし、ボクシング、レスリング、陸上競技で才能を示した〔James B. Roberts、Alexander G. Skutt"The Boxing Register: International Boxing Hall of Fame Official Record Book",October 1, 2011,McBooks Press,ISBN-10: 9781590134993,p.144-145〕。
1895年、巡業で訪れた黒人ボクサーのハンク・グリフィンを相手に懸賞金を賭けた非公式試合を行い、技術に翻弄されながらも17回にKOで勝利する。このことをきっかけにプロボクサーとなることを決意する〔Ian Carey"When Boxing Was, Like, Ridiculously Racist ",February 21, 2013,Amazon Digital Services LLC ,ASIN: B00BJKTI62〕。
1896年7月2日、21歳でプロデビュー。
1897年ジェームス・J・コーベットの所属ジム「オリンピッククラブ」に招かれ、スパーリングパートナーを務めるようになった〔。
1898年3月22日、元黒人ヘビー級王者のピーター・ジャクソンと対戦し、3回TKO勝ち。
1898年5月6日、トム・シャーキーと対戦し、20回判定勝ち。
1898年8月5日、元黒人ヘビー級王者のボブ・アームストロングと対戦。10回判定勝ち〔"BROKE ARM IN FIRST BOUT ", ''New York Times '',August 6, 1898〕。
1899年6月9日、世界ヘビー級王者ボブ・フィッシモンズに挑戦し、11回KO勝ちで世界王座を獲得した〔。
1899年11月3日、防衛戦でトム・シャーキーと再戦し、25回判定勝ちで初防衛に成功した。
1900年4月6日、防衛戦でジョン・フィネガンと対戦し、初回55秒でのKO勝ちで2度目の防衛に成功した。この初回55秒という試合時間は、2005年レイモン・ブリュースターが初回52秒でアンドリュー・ゴロタにTKO勝利をするまで、長らくヘビー級タイトルマッチ史上の最短記録であった。
1900年5月11日、防衛戦でジェームス・J・コーベットと対戦し、23回に左フックでKO勝ちを収め3度目の防衛に成功した。
1901年9月18日、ハンク・グリフィンを相手に、4回以内にKOできなければ100ドルを払うという変則マッチを行う。2回にカウント9のダウンを2度奪うなど圧倒するも、KOは果たせなかった〔"JEFFRIES FAILS TO STOP GRIFFIN ", ''San Francisco Call '',September 18, 1901〕。
1901年11月15日、防衛戦でガス・ルーリンと対戦し、5回TKO勝ちで4度目の防衛に成功した。
1902年7月25日、防衛戦でボブ・フィッシモンズと再戦し、8回KO勝ちで5度目の防衛に成功した。
1903年8月14日、防衛戦でジェームス・J・コーベットと対戦し、10回に2度のダウンを奪い棄権によるTKO勝ちを収め6度目の防衛に成功した。
1904年8月26日、防衛戦でジャック・モンローと対戦し、2回TKO勝ちで7度目の防衛に成功した。この試合を最後に王座を返上し、無敗のまま引退。サンフェルナンドバレーで農園を開いた〔。
1910年7月4日、ジェフリーズ引退後に黒人初の世界ヘビー級王者となったジャック・ジョンソンと対戦するために約6年ぶりに復帰するも、15回TKO負けで王座返り咲きに失敗し、そのまま再び引退した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェームス・J・ジェフリーズ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.