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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジェームズ・コンロン(James Conlon, 1950年 - )は、アメリカ合衆国出身の指揮者。現在はもっぱらヨーロッパにおいて、管弦楽曲とオペラの両面にわたって活躍しており、とりわけポスト・マーラー世代と呼ばれる「音楽版ユーゲントシュティール」の作曲家の再評価に積極的である。 ==略歴== マンハッタン出身。両親はカトリック信者で、父親はアイルランド系、母親はドイツ人とイタリア人の混血であった。裕福な家庭とはいえなかったが、両親はともに教育熱心で、息子の知的・音楽的野心を熱烈に支援した。フィオレロ=ラゴーディア音楽学校を卒業後、ジュリアード音楽院で指揮を学ぶ。 1971年にスポレート音楽祭にてムソルグスキーのオペラ《ボリス・ゴドゥノフ》を指揮して公式にデビューを果たし、翌年マリア・カラスの推薦により《ラ・ボエーム》を指揮してニューヨーク・デビューを果たす。 1974年にピエール・ブーレーズの招きでニューヨーク・フィルハーモニックと初共演を果たし、その後はボストン交響楽団やシカゴ交響楽団、ピッツバーグ交響楽団、クリーヴランド管弦楽団、フィラデルフィア管弦楽団、ミネソタ管弦楽団、ロサンジェルス・フィルハーモニック、ワシントン・ナショナル交響楽団など、北米やヨーロッパの主要なオーケストラに客演した。 1976年にメトロポリタン歌劇場にデビューし、オペラハウスとの長い協力体制の足がかりを固める。同歌劇場には200回以上にわたって出演し、イタリア、ドイツ、フランス、ロシア、チェコのオペラを取り上げた。それ以降はスカラ座やロイヤル・オペラ・ハウス、シカゴ・リリック・オペラでも指揮を執っている。 1983年から1991年までロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督に就任し、1989年から2002年までケルン市の総合音楽監督ならびにケルン・ギュルツェニヒ管弦楽団とケルン歌劇場との音楽監督をも務めた。1995年から2004年までパリ国立オペラの音楽監督も兼務し、350回の公演で32曲を指揮した。そのうち、パスカル・デュサパンの《 ''Perelá, l'Homme de Fumèe'' 》の世界初演と、ツェムリンスキーの《小人 ''Der Zwerg'' 》のフランス初演、ドヴォルザークの《ルサルカ》のパリ初演、ムソルグスキーの《ホヴァーンシチナ》のパリ国立オペラにおける初演が目立っている。 ヨーロッパでは、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団やバイエルン放送交響楽団、シュターツカペレ・ドレスデン、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、ロンドン交響楽団、バーミンガム市交響楽団、パリ管弦楽団、フランス国立管弦楽団、ローマ聖チェチーリア音楽院管弦楽団、マリインスキー劇場管弦楽団などを指揮している。合唱指揮者としては、1979年より「シンシナティ5月祭」の音楽監督を務めている。2005年にはラヴィニア音楽祭の音楽監督に就任した。また、2006年からロサンジェルス・オペラの音楽監督に就任した。 コンロンはナチス・ドイツの犠牲となった作曲家の再評価に努めており、その作品を欧米のオーケストラとともに取り上げてきた。とりわけツェムリンスキーやシュレーカー、ヴィクトル・ウルマン、パヴェル・ハース、ボフスラフ・マルティヌー、コルンゴルト、カール・アマデウス・ハルトマン、エルヴィン・シュルホフの卓越した解釈によって知られる。 2002年から2003年の定期にかけて、PBSの特別番組「協奏曲」において、6時間にわたってメイン司会者を務めるなど、同局の音楽番組にしばしば出演している。 1999年、ツェムリンスキー作品の国際的な普及に貢献したとして、ツェムリンスキー賞の最初の受賞者となる。1996年にフランス政府より受勲され、2002年9月にはジャック・シラク大統領よりレジオンドヌール勲章を授与されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェームズ・コンロン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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