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ジェームズ・ライリー・ブレーク(James Riley Blake, 1979年12月28日 - )は、アメリカ・ニューヨーク州ヨンカーズ出身の元男子プロテニス選手。ATPツアーでシングルス10勝、ダブルス7勝を挙げた。シングルス自己最高ランキングは4位(2006年11月20日付)。身長185cm、体重83kg、右利き。 2007年デビスカップ優勝に貢献。2003年・2004年ホップマンカップ優勝。2006年テニスマスターズカップ準優勝。 == 選手経歴== ブレークは5歳からテニスを始めた。13歳の時、重症の「脊柱側弯症」(scoliosis)と診断され、テニスを断念した時期がある。1998年に名門ハーバード大学へ入学したが、2年で中退、1999年からプロテニス選手になった。一時期は男性モデルの仕事をしたこともある。ブレークの名が世に知れわたったのは、2001年全米オープン2回戦。対戦相手のレイトン・ヒューイットが「フット・フォールト」を黒人の線審(ライン・ジャッジ)に指摘され、その線審とブレークを交互に指差して、主審に暴言を吐き、この発言をテレビカメラのマイクが拾ったことから、会場は騒然となった。試合では、 4-6, 6-3, 6-2, 3-6, 0-6 でブレークが敗れたのだが、ヒューイットのマナーの悪さが話題となり、その時の対戦相手として知られるようになった。加えて、翌2002年の全米オープン3回戦でも二人が対戦することとなり、ブレークは7-6, 3-6, 4-6, 6-3, 3-6 のフルセットでに敗れたものの、前年のヒューイットの暴言事件の話題が再燃し、ブレークの名は、ヒューイットの暴言の相手だったことで広く認知されるに至った。 その後は、苦難が続き、2004年5月に練習中に首を痛め、2ヶ月間の戦線離脱を余儀なくされる。その間に父親を病気で亡くす不幸もあった。また、ある朝に顔の左半分が麻痺してしまい、視覚と聴覚にも不調をきたしたとされる。 そうした苦難を乗り越えて復活、2005年の全米オープンでは、自身初の準々決勝進出を果たした。対戦相手は当時、全米オープン「20年連続出場」の大ベテランアンドレ・アガシ。ブレークは2セット・アップ(先に自分が2セットを取ること)しながらも、続く3セットを落とし、6-3, 6-3, 3-6, 3-6, 6-7 のフルセットでアガシに逆転負けした。 2006年のシーズンに入り、ブレークは1月のオーストラリア・シドニー大会と2月末のアメリカ・ラスベガス大会で優勝した。加えて、3月上旬には、4大大会に次ぐ大規模な大会群である「ATPマスターズシリーズ」(年間9大会が指定)の一つ「インディアンウェルズ・マスターズ」で初の決勝戦に進出した。当時世界1位のロジャー・フェデラーに 5-7, 3-6, 0-6 のスコアで完敗し準優勝に終わったが、自身初の世界ランキングトップ10内となる9位に入った。この年は男子ツアーで自己最高記録となる年間「5勝」を挙げ、世界ランキング上位8名しか出場資格を得られない年間最終戦「テニス・マスターズ・カップ」にも初出場を果たした。この大舞台でブレークは決勝に進んだが、決勝ではフェデラーに 0-6, 3-6, 4-6 のストレートで敗れ準優勝に終わった。 2008年には、「デルレイビーチ国際テニス選手権」で決勝に進出。ブレークは日本の錦織圭に 6-3, 1-6, 4-6 の逆転で敗れ、結果、錦織圭の初優勝の対戦相手となった。 また、同年8月の北京五輪でブレークは米国代表として出場。準々決勝では、第1シードのロジャー・フェデラー(スイス)を 6-4, 7-6(2) で破り、ベスト4に勝ち進み、メダル獲得の期待が大いに高まったが、準決勝でフェルナンド・ゴンサレス(チリ)に 6-4, 5-7, 9-11 で敗れ、「3位決定戦」でもノバク・ジョコビッチ(セルビア)に 3-6, 6-7 で敗れ、惜しくもメダル獲得はならなかった。 2009年のウィンブルドンで、ブレークは同じアメリカのマーディ・フィッシュとペアを組んで男子ダブルスのベスト4に進出した。2人は1回戦で全仏オープン優勝の第3シード、ルーカス・ドロウヒー(チェコ)&リーンダー・パエス(インド)組を破って波に乗り、以後もシードペアを連破して勝ち進んだ。準決勝では第2シードのダニエル・ネスター(カナダ)&ネナド・ジモニッチ(セルビア)組に 7-5, 6-3, 2-6, 6-7, 8-10 の逆転で敗れ、決勝進出を逃した。 ジェームズ・ブレークは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのアメリカ代表選手としても、2001年から出場を続けている。黒人テニス選手のデ杯米国代表入りは、アーサー・アッシュ、マラビーヤ・ワシントンに続いて史上3人目となる。2007年11月30日-12月2日の「ワールドグループ」決勝戦で、アメリカはロシアを破って12年ぶりのデ杯優勝を果たし、ブレークもシングルス第2試合・第5試合の勝利で米国チームの優勝に貢献した。 ブレークは2013年全米オープンを最後に33歳で現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェームズ・ブレーク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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