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ジェームズ・アボット・マクニール・ホイッスラー(James Abbott McNeill Whistler, 1834年7月11日-1903年7月17日)は、19世紀後半のアメリカ人の画家、版画家。おもにロンドンで活動した。印象派の画家たちと同世代であるが、その色調や画面構成などには浮世絵をはじめとする日本美術の影響が濃く、印象派とも伝統的アカデミズムとも一線を画した独自の絵画世界を展開した。 == 生涯 == ホイッスラーは、1834年にアメリカ・マサチューセッツ州ローウェルに土木技師の子として生まれた。アメリカ人であるが、パリで美術を学び、画家としての生涯の大半をロンドンとパリで過ごしている。 ホイッスラーは、土木技師であった父が鉄道建設の仕事のためロシアに移住するのに従い、1842年(1843年とも)からの数年間をロシアのサンクトペテルブルクで過ごし、その後、ロンドンやブリストルにも住んだ。1851年にはアメリカに戻ってウェストポイントの陸軍士官学校に入るが1854年に中退。1年間ほどワシントンD.C.で地形図の銅版画工として働いた後、1855年にはパリに居を構えている。 パリでは当時のリアリズムの巨匠であったシャルル・グレールのアトリエに通うが、その伝統的な画風にあきたらず、当時の革新的な画家であったギュスターヴ・クールベに強い共感を覚えた。パリでは画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール(1836 - 1904)、アルフォンス・ルグロ(1837 - 1911)と「三人会」を結成している。 数年後の1859年にはロンドンにもアトリエを構え,ロセッティ兄妹と知り合った。以後、ロンドンとパリを往復しつつ制作活動を続け、1860年からはロンドンのロイヤル・アカデミーに出品している。ホイッスラーは1862年にロンドンの展覧会に出品し、翌1863年にはパリの「落選展」に出品された、当時恋人だったジョアンナ・ヒファーナンをモデルにした『白の少女』(ホワイト・ガール)で一躍注目を集めた。この作品では、モデルの少女の白いドレス、手にしている白い花、背景の白いカーテン、足下の白い敷物など、さまざまな白の色調が対比され、人物の内面描写よりも色彩のハーモニーを表現すること自体が絵画の目的となっている。この頃から彼の作品には「シンフォニー」「ノクターン」などの音楽用語を用いた題名が付されることが多くなった。 1876年から翌年にかけては、パトロンであった富豪レイランドのロンドンの邸宅の室内装飾を手がけた。壁面に孔雀を大きく描いた食堂の内装は、のちに部屋ごとワシントンDCのフリア・ギャラリーに移されている。1879~80年はヴェネツィアで過ごしたが再びロンドンに戻り、1886年にはイギリス美術家協会会長に任命されるなど、名実ともにイギリス画壇の中心人物となった。1903年にロンドンで没している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 James Abbott McNeill Whistler 」があります。 スポンサード リンク
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