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ジェームズ・ラウス : ミニ英和和英辞書
ジェームズ・ラウス[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェームズ・ラウス : ウィキペディア日本語版
ジェームズ・ラウス[ちょうおん]
ジェームズ・ラウス(ジェームズ・ロウズ、James Wilson Rouse、1914年4月26日 - 1996年4月9日)は、アメリカ合衆国各地で先駆的不動産開発を手がけた都市プランナー市民活動家ボルチモアボストンニューヨークなどのウォーターフロント開発を行ったディベロッパー、ラウズ社の創設者で商業用不動産の開発者。計画的コミュニティ開発から都市計画理念を確立した都市計画学の研究者や篤志家としてもしられ、メリーランド州コロンビアのような都市を生み出し、キャリア後半1990年以降は都市の貧困問題にも力を注ぎ、低所得者用の住宅建設や地区活性化にもとりくむ。
もともと弁護士で、弁護士が生涯救うことのできる人の数は限られているが、まちをよくするのは何十万人という人に喜びをあたえられる、という言葉を残してプランナーに転進した人物。
最初の妻エリザベスとの娘が、俳優エドワード・ノートンの母。
メリーランド州イーストン出身。
日本には1986年に来日。財団法人日本都市センター主催、西洋環境開発の協賛で行われたシンポジウム「甦る都市ーー都市再開発のパラダイム」で基調講演を行った。この時のシンポジウムをベースに、88年に『都市再生のパラダイムーJWラウスの奇跡』(PARCO出版)が出版された。このほか大阪海遊館などの企画にかかわり、孫のエドワードがこのとき日本語通訳として参加している。こうしたテーマ性の高い集客施設の企画、設計にラウズ社は携わっており、こんにちフェスティバル・マーケットプレイスと呼ばれる商業物販エリアをお祭り市場といった要素を導入してつくられる複合商業施設を次々とうみだしている。商業施設が地域の歴史や文化を重視し、施設と周辺環境の調和を図るという設計の思想により、食料品店舗が中心のテナント構成を図った。
ラウズ社のフェスティバル・マーケットプレイスの開発の他の例としては、ニューヨーク/サウスストリートシーポート、東フィラデルフィアマーケット、セントルイスのユニオンステーション、 ポートランドダウンタウン・パイオニアプレイス、ニューオリンズ・リバーウォークマーケットプレイスなどがある。ニューヨークはまた「フルトン・マーケット」「ピア17」など、ボストンの「クインシー・マーケット」などもある。
これらは都市の活性にはその中心に商業のための核施設必要であるいうラウスの信念のもとから発想され、1967年ごろから、当時下降傾向であったボルチモアのインナーハーバーを約20年ぐらいかけて計画し開発。まちを活性化させこの後ボストンのファニュエル・ホール・マーケットプレイスなどアメリカ東海岸の主要なウォーターフロント開発のディベロッパーとして名をはせる。
== 略歴 ==
メリーランド州イーストンに生まれるが、父親はメリーランド州ベルエア出身で、ハーフォード郡の弁護士になったという。ジェームズは小さいころは学校ではなく母親から教育を受けていたという。
ジェームズが高校のときに病気でこの両親を亡くし、住んでいた家も手放すことになる。その後、大学入学のためメリーランド州ポートデポジットにある予備校:en:Tome Schoolに通うことを進められるが、お金の問題が直面し、ハワイに駐留する海軍将校と結婚した姉に頼り、ハワイ大学に入る。その後奨学金を得てバージニア大学に通い政治学を学ぶが、奨学金と残りの経費とのギャップをカバーすることができないため、シャーロッツビルを出て、自分でなんとかしようとするため1933年、ボルティモアに赴く。ここではセントポールのガレージで駐車場管理の仕事を見つける。当時運転することができなかったにもかかわらず、仕事を得たと後年語っている。2年法律学校を通うのためには十分であった。彼はお金を借りてガレージで働きながら、メリーランド大学に100時間週にわたってロースクールに通った。1937年に大学卒業後、連邦住宅局に勤務し、1939年にはパートナーであったハンター・デ・モスらと住宅ローンを取り扱い、最初モス・ラウズ会社と呼ばれるラウズ社を設立。
第二次世界大戦後、メリーランド州ボルチモアで荒廃した住宅ストック修復に関わるようになるが、これはドワイト・D・アイゼンハワーの1953年に始まる国立住宅タスクフォース実施につながった。そのタスクフォースによって行われた一連の勧告報告書を記述する際、彼は都市再生または普及支援という用語を導入している。
1965年、高級コンドミニアムの開発を手がける。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェームズ・ラウス」の詳細全文を読む




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