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ジェームズ・ラッセル・ローウェル : ミニ英和和英辞書
ジェームズ・ラッセル・ローウェル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ジェームズ・ラッセル・ローウェル ( リダイレクト:ジェイムズ・ラッセル・ローウェル ) : ウィキペディア日本語版
ジェイムズ・ラッセル・ローウェル[ちょうおん]

ジェイムズ・ラッセル・ローウェル(、、1819年2月22日 - 1891年8月12日)は、アメリカ合衆国ロマン主義詩人であり、批評家編集者、かつ外交官でもあった。イギリスの詩人の人気に対抗した最初のアメリカはニューイングランドの詩人集団である「炉辺の詩人」と関わった。これら詩人達は通常その詩に伝統的な形態と韻律を採用し、炉辺で娯楽の時を過ごす家族に適応できるようにした。
ローウェルは1838年にハーバード・カレッジを卒業し、そのトラブルメーカーという評判にもかかわらず、ハーバード法学校で法律の学位を取得することになった。1841年に最初の詩集を出版し、1844年にはマリア・ホワイトと結婚した。ローウェルとその妻は4人の子供をもうけたが成人したのは1人だけだった。この夫婦は間もなく奴隷制度廃止運動に関わるようになり、ローウェルは詩を使ってその反奴隷制度の見解を表現し、ペンシルベニア州フィラデルフィアで奴隷制度廃止運動家の新聞の編集者の職を得た。その後ケンブリッジに戻り、「ザ・パイオニア」という雑誌の設立者の1人となったが、わずか3号で廃刊になった。1848年には当時の批評や詩を風刺する1冊の本の長さがある詩、『批評の寓話』を出版して評価を得た。同年、「ビッグロー・ペーパーズ」を出版して名声を高めた。その後もその文学人生を通じて数冊の詩集や随筆集を出版することになった。
妻のマリア・ホワイトが1853年に死亡し、ローウェルは1854年にハーバードで言語学の教授の職を受けた。そこでは20年間教え続けた。ヨーロッパに旅した後の1856年に公式にその役職を引き受けることになった。それから間もない1857年にフランシス・ダンラップと再婚した。この年、雑誌「ジ・アトランティック・マンスリー」の編集者にもなった。ローウェルが初めて政治的な役職である駐スペイン王国大使を引き受けたのはそれから20年後だった。さらにその後に駐英国大使にも指名された。晩年はケンブリッジの生まれたときと同じ敷地で過ごし、1891年に死去した。
ローウェルは詩人が社会の預言者かつ批評家として重要な役割を果たすと考えた。改革のため、特に奴隷制度廃止のために詩を使った。しかし、反奴隷制度運動に関わったことで、長い間にアフリカ系アメリカ人に対する意見と同様に考え方が揺れた。特には『ビッグロー・ペーパーズ』ではその特徴である会話においてヤンキーの真のアクセントを真似ようとした。この方言の表現はローウェルの多くの風刺と共にマーク・トウェインやH・L・メンケンのような作家に影響を与えた。
== 伝記 ==

=== 生い立ち ===

ローウェル家の先祖で最初にイギリスからアメリカに渡って来たのは1639年のパーシバル・ローウェルであり、ニュベリーに入植した〔Sullivan, 204〕。ジェイムズ・ラッセル・ローウェルは1819年2月22日に〔Nelson, 39〕マサチューセッツ州ケンブリッジで生まれた。父はチャールズ・ラッセル・ローウェル・シニア(1782年–1861年)であり、ボストンのユニタリアン教会の牧師で、エディンバラ神学を勉強したことがあった。母はハリエット・ブラケット・スペンスだった〔Sullivan, 205〕。ローウェルが生まれた時には、一家はケンブリッジでエルムウッドと呼ばれる大きな家産を所有していた〔Heymann, 55〕。ローウェルは6人兄弟の末っ子だった。兄弟はチャールズ、レベッカ、メアリー、ウィリアム、ロバートだった〔Wagenknecht, 11〕。ローウェルの母はローウェルが幼い時に文学の嗜好を植え付け、特に詩やバラード、また出身地のオークニー諸島の物語を聞かせた〔。ソフィア・ダナの経営する学校に入学した。ダナは後に超越主義者のジョージ・リプリーと結婚した。ローウェルは最大級に躾の厳しい学校で学んだ。その時の級友にリチャード・ヘンリー・デイナが居た〔Duberman, 14–15〕。
ローウェルは15歳になった1834年からハーバード・カレッジに進学したが、生徒としては優秀ではなく、しばしばトラブルを起こした〔Duberman, 17〕。2年生のときだけで、義務とされていた礼拝を14回、授業は56回欠席した〔Sullivan, 208〕。最終年には「1年生のとき何もしなかった。2年生のとき何もしなかった。3年生のとき何もしなかった。4年生のときカレッジでの勉強というものを何もしていなかった」と記していた〔。4年生のとき、文学雑誌「ハーバーディアナ」の編集者の1人となり、それに散文や詩を投稿したが、その出来は良くないと自分でも認めていた。ローウェルは、「私はいなないたロバほど偉大であり、それが歌っていると思った」と後に語った〔Duberman, 20〕。学部生のころにはヘイスティ・プディングの会員になり、書記と詩人を務めた。

ローウェルは1838年にクラスの詩人に選ばれ〔Duberman, 26〕、伝統に従い、卒業式の前のクラスデイ、1838年7月17日に自作の詩を朗誦することを求められた〔。しかし、ローウェルは停学となり、式への出席を許されなかった。その代わりにローウェルの詩が印刷され、級友による献金で入手できるようにされた〔。ローウェルはその詩をコンコードで作っており〔、ローウェルが学業を怠ったために、ハーバードの教授会からバーザライ・フロスト牧師の世話になるようそこに追放されていた。ローウェルがケンブリッジに滞在する間、ラルフ・ウォルドー・エマーソンと友人になり、他の超越主義者も知るようになった。その詩は当時の社会運動を風刺し、奴隷制度廃止運動、トーマス・カーライル、エマーソン、超越主義者が扱われた。
ローウェルは卒業後もどの職業を選ぶべきかが分からず、商業、牧師、医師、弁護士といった職業の間で揺れ動いた。1840年に法律を勉強することに決めてハーバード法学校に入学し、2年後には法廷弁護士として認められた〔Sullivan, 209〕。しかし、法律を勉強する間に、様々な雑誌に詩や散文を投稿していた。この期間、ローウェルは明らかに落ち込んでおり、自殺まで考えることが多かった。ある友人に、20歳のときに撃鉄式の拳銃をこめかみに当てて自殺するところだったと打ち明けていた〔Wagenknecht, 50〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ジェイムズ・ラッセル・ローウェル」の詳細全文を読む




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