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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジェーン・グレイ(、1537年10月12日? - 1554年2月12日)は、16世紀中頃のイングランドの女王(在位1553年7月10日〔ジェーンがロンドン塔に入城し枢密院がその即位を宣言したのが7月10日。前のエドワード6世が崩御したのはその4日前の7月6日だったが、その死はジェーンがロンドンに到着するまで秘匿された。この空白の4日間もジェーンの治世に含めて彼女の即位を7月6日まで溯る見方もあるにはあるが、実態を欠く。〕 - 19日)。異名に九日間の女王(ここのかかんのじょおう、)がある。 数奇な縁でイングランド史上初の女王として即位したが、在位わずか9日間でメアリー1世により廃位され、その7か月後に大逆罪で斬首刑に処された。そうした経緯から、イギリスでは古来彼女のことを「クイーン・ジェーン」(、ジェーン女王)とは呼ばずにレディー・ジェーン・グレイ(、ジェーン・グレイ令嬢)と呼んできた。ジェーンを正統なイングランド君主とはみなさない史家や学者も少なくないが、今日のイギリス王室はジェーンをテューダー朝第4代の女王として公式に歴代君主の一人に数えている〔Lady Jane Grey (英国王室公式サイトの歴史セクションより、2014年9月29日閲覧 )〕。 父は初代サフォーク公爵ヘンリー・グレイ、母は同公爵夫人フランセス・ブランドン。母方の祖母がヘンリー8世の妹でプロテスタントのメアリー・テューダーだったことがジェーンの王位継承権の根拠となった。 == 来歴 == ジェーンの血統に着目したウォリック伯(のちのノーサンバランド公 ジョン・ダドリー)は、政敵サマセット公 エドワード・シーモア(エドワード6世の母方の伯父)に反逆の汚名を着せ処刑した後、自分の息子ギルフォード・ダドリー〔ジョン・ダドリーの六男。8人いた息子のうち1553年当時存命だった5人の中では上から4番目。〕とジェーンを結婚させた。そうして、王位継承のライバルとなるヘンリー8世の子メアリーがカトリックであることを利用し、熱烈なプロテスタントのエドワード6世を説き伏せ、病床の王からジェーンへの王位継承を指示する勅令を得た。ノーサンバランド公の最終目的は、ジェーンとギルフォードの息子(つまりノーサンバランド公の孫)を王位につけることにあったという。 エドワード6世が崩御すると、ノーサンバランド公はジェーンの即位を宣言したものの、陰謀を察知したメアリーが逃亡〔英文のものも含め、ノーフォーク公がメアリーを匿ったと記述されている文献があるが、これは誤り。第3代ノーフォーク公 トマス・ハワードはヘンリー8世の晩年にロンドン塔に投獄され、その身柄は次のエドワード6世の在位中もずっと獄中にあった。メアリーはまずハワード家の所有するノーフォーク州のケニングホールに逃れ、その後フラミンガム城に移動した。メアリーがノーサンバランド公に勝利し、女王になってからやっとノーフォーク公は釈放された。〕し、身柄を拘束できなかった。そのためメアリー派の反攻を許すこととなり、1553年7月19日にサフォークでメアリーが即位を宣言、ジェーンと夫ギルフォードらが逮捕された。続けてギルフォードの兄弟、ジョン、アンブローズ、ロバート(のちにエリザベス1世の寵臣となる)、ヘンリーらダドリー一族も逮捕された。 その後、ジェーンはロンドン塔幽閉を経て、1554年2月12日、夫ギルフォードとともに斬首された。王位に就いたメアリーは当初、ジェーンの処刑に躊躇したといわれるが、スペイン王カルロス1世と王太子フェリペの婚約解消の脅しに屈し〔ジェーンの父、ヘンリー・グレイはフェリペとメアリーの結婚に対する反対者が起こしたケントの反乱の首謀者の一人であったため、スペイン王室からグレイ一族の抹殺が結婚の条件として突きつけられることになった。〕、処刑の命令を下したという。なおこの1554年2月というのは、ジェーンを王位に即けることを要求したワイアットの乱の起きた月でもあり、その影響もあったと考えられる。 処刑後、遺体は夫ギルフォードと共にセント・ピーター教会に葬られた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェーン・グレイ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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